『ジェーン・バーキンという謎③』

雑誌『フィガロ』のジェーン・バーキン追悼号に、
親交のあった村上香住子(作家・ジャーナリスト)が寄稿しています。
アパルトマンの5階から転落死してしまった長女ケイト・バリーの墓参りに渡仏した際のエピソードが綴られているのですけど、カフェ・ドゥ・マゴに現れたジェーンについて、彼女はこう書いています。

「相変わらず無造作な髪にジーンズ姿だが、入退院を繰り返していたせいか少しやつれた感じで、泣いているのか、笑っているのかわからない、あのおなじみの表情で入ってくる。」

そうなのですよね。謎というのは、シンプルに知らないことなのですから、ジェーン・バーキンに私が謎を感じるというのは、彼女が誰なのか知らない、そのことに尽きるのだと思います。きっと、ほとんどのファンの方もそうではないかと思うのですけど、いったい彼女が誰なのか分からないまま、その表層だけを愛してしまっている。そういうありようをジェーンはしているのかもしれない。

浮遊するシニフィアンなんて言い方がありますけど、
結局のところ最後まで彼女は尻尾を掴まれなかったのかもしれません。

女優であり、モデルであり、歌手。
あるいは社会運動に関心を持っていた活動家という一面もある彼女。ジョン・バリー、セルジュ・ゲンズブール、ジャック・ドワイヨンと結婚してそれぞれに子供をもうけた母であり、自由奔放な女性。

メンズライクなファッションであるとか、短い髪で中性的と言われてみたり、
ある種のファム・ファタルのように扱われてみたりする、性の中間を生きているような存在。

この立ち位置も、彼女自身が望んでそう振る舞っていた訳ではなく、素直に生きていたらそうなったと言われていますけど、それは違うように思うのですね。

彼女には彼女なりの計算があったのだけど、それはことごとく失敗してしまった。
あるいは計算通りにことは進まなかった。
だけど、思惑とはズレたところで常に評価をされてしまった女性。

それが彼女の本質なのではないかと思うのです。

何かと何かの間にいるような。何かと何かの間を表現しているような。その中間領域とでも言う他のない地点に、自分が望んでいた訳でもないのに佇んでいる、本質的には素直な子供。それがきっと彼女の魅力ではないかと思うのです。