『普通という異常』を読み進めていくと、なぜこんなに「承認」を求めなければいけないのだろうというシンプルな疑問が生まれてきます。以前もご紹介しましたけど、精神科医の斎藤学は依存症になる社会的な背景について、こう書いています。
「絶対的な価値を与えてくれる宗教の力が弱まった近代の市民たちは、『老若男女を問わず自らの価値に懐疑的になっていて、他者の承認や拍手ばかり求めて』おり、
『拍手をもらうためなら、かなり危険で無理なことまでやってのける』という。
宗教に頼らず、コミットすべき価値を自ら選び取らなくてはならないという近代の規範は、すべての人間にとって荷が重いものであり、神の代わりに他者からの評価に縛られ、他者に評価されるよう強い意志で自分に鞭を打ち続けるという個を生み出した。」
これがきっと、いわゆる近代的自我を生んだのでしょうし、そこから時代が下がって、いじコミのバトル・フィールドで生きていくという社会が生まれてきたのでしょうけど、まるで、ホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」みたいな話ですね。
ところが、ただ戦えばいいという訳ではなくて、競争相手である自分以外の普通の人たちから、承認もされないといけない訳です。「いいね!」をもらわないといけない。
そんな複雑な社会で生きていたら…それはまぁ心を病む人が増えるよね。
そう思いながら続きを読んでいたのですけど、
この傾向は強くなってきていると兼本浩祐は書いています。
うん、確かにそうですよね。それはカウンセリングの現場でも常々感じることです。
彼はその理由についてボードリヤールやサルトルを引用して説明するのですけど…
要はすでに価値が相対的になりすぎて、一体何に絶対的な価値があるのか分からない。だから、多くの普通の人たちが価値があると考えているものに価値がある。そういう構造になっているのが現代だと言うのですね。
ブランドのようなものですね。大衆的に共有された価値付けの方が先にあって、
ブランドの商品であるということが価値を担保している。
18金だから価値があるとか、そういう時代ではもうないということです。
みんなが「いいね!」しているものに価値がある。
だから「いいね!」を求める。そういうことですね。