南方熊楠の持っていた思考法、それは能力と言ってもいいと思うのですけど、◯◯だから◯◯であるといった論理を超えて、直感で全体を掴み取ることで成り立っているのですね。
中沢新一は、そのことを説明するのにモーツァルトの例をあげます。
「モーツァルトは作曲する前に曲がいちどに全部頭の中に現れてくると、自分で書いています。一つの音楽が着想されると、その曲はすべてが一挙に頭に浮かんでくる、ということは、曲全体がかたまりになって一つの和音として聞こえてくるということでしょう」
モーツァルトは、そのままでは曲にならないですから、せっせと時間軸に沿って音符に書き起こすという作業をしていたのでしょうけど、曲のオリジナルというのは、いきなり全体がやってくるわけです。
まさに「アウラ」的な体験だと思うのですけど…『熊楠の星の時間』では、それが起こる瞬間についてラカンを引用しながら、人間には触れることのできない現実そのもの(現実界)とそれを言葉に置き換えて、人間に理解できる秩序だった形にする(象徴界)の結び目に何かしら瑕疵があるのが原因ではないかと考えるのですね。
「熊楠は同じ精神の病質を抱えていたと思われるドストエフスキーのように、賭博のような「種々遊戯」に身を入れることはしませんでした。そのかわり、賭博と同じに遊戯的な、「学問」というものから始めようと思った人でした。遊戯の原型は賭博にあり、さらにその原型は占いにあります。占いにはさまざまなやり方が発明されてきましたが、基本は象徴界にいかにして「偶然」を導入するかにかかっています。(中略)人間がこういう賭博に夢中になるのは、無意識の原初過程にダイビングしながら意味を生成している言語活動の本質が、遊戯をとおして表面に引き出されてくるからでしょう。遊戯は自由の感覚を与えてくれます。それは賭博のような遊戯が、強烈な形で原初過程の本質である快感原則に触れさせてくれるからです。」
ドストエフスキーの癲癇は「いわゆるドストエフスキー癲癇」と呼ばれる側頭葉癲癇で、恍惚を伴う症例の少ないものなのです。
全体を一気に捉える…というよりもベンヤミンの言うように全体から一気に捕らえられる「アウラ」体験というのは自由の感覚を与えてくれる。それは恍惚を伴うものなのですね。