『シンゴの旅ゆけば~!(60)親日国トルコ』

トルコのどこだったか、たぶん黒海の沿岸あたりをふらついている時だったと思うのだけど…けっこう田舎の町でおじいさんに声をかけられた。

カフェでコーヒーを飲んでいたら、通りかかった彼に「日本人か?」と訊かれたのよね。そうですと答えると、そうか、そうか、やっぱりそうか、ついて来いと言われた。ただ、俺はトルコ語ができないし、おじいさんは英語ができない。だからほとんど会話は成り立たず、身振り手振りでやり取りする他なかった。

そもそも外国で(日本国内だってそうだろうけど)知らない人について来いと言われても、ついていってはいけない。そんなことは子供でも知っている。でもね、おじいさんの顔には何かしらやましさとか、悪の匂いがまったくしなかったから、面白そうだからついていってみたのよね。この勘って外れたことがないと思うし。

カフェのすぐ近くの2階建ての家がおじいさんの家で、おばあさんに、きっとお嫁さんなのかな、若い女性が赤ちゃんを抱いて出てきた。若い方の女性が、主人がもうすぐ帰ってくる。主人は英語が話せるから、それまで待てと父が言っている。そういう感じのことを英語で言った。

絨毯の敷いてある部屋で待っていろと、おじいさんに身振り手振りで指示されて、すぐに紅茶が運ばれてきたので、それを飲みながらゴロゴロしていた。まぁ、厚かましいよな、俺は…。

それでまぁしばらくすると、ヒゲが濃すぎるだろ、それはってくらい顔の下半分が真っ黒な息子が戻ってきて、彼の通訳で話をすることになったのよね。

トルコ人は日本人に恩義を感じている。イスラム教の国ではないかもしれないが、それでも日本人のことをトルコ人は大好きだ。おじいさんはそう言った。

今から100年くらい前に、トルコの船が日本で沈んだ。生き残ったトルコ人は日本人に助けられた。この話はもちろん知っているよね?

恥ずかしい話なのだけど、俺はそんな話をまったく知らなかったのだ。後で本を読んだのだけど、明治23年に和歌山県沖でトルコの軍艦エルトゥールル号が座礁して、串本町の人たちが救助を行った。当時の日本国内から義援金が集まり、生存者69名は日本海軍の船2隻でトルコに帰還した。おじいさんの話だと、トルコでは小学校でこの話を習うのだそうだ。

ごめんなさい。はじめて知りましたと言うと、おじいさんは少し悲しそうな顔をしたけれど、だから日本人のあなたに夕食を振る舞いたいと言ってくれた。ありがたいことだ。

トルコの料理は本当に美味しい。ピーマンの肉詰めってあるけど、あれはもともとトルコ料理なのよね。その後お礼の絵ハガキを送ったのだけど、あれは無事に届いたかな?

このエルトゥールル号の話には続きがある。

1985年にサダム・フセインが、48時間後にイラン上空を飛ぶ飛行機を無差別攻撃すると宣言した。当時のイランに住んでいた日本人215人はテヘランの空港に集まったそうなのだけど、航空便は満席で出国できなかったそうだ。日本から救援機が来そうなものだけど、安全が確保できないとの理由から見送られてしまう。

その時トルコ航空2機が日本人の救援のためにやってきて、日本人全員を救出してくれた。イランにいたトルコ人は陸路で国境を越えて無事だったそうだ。イランはトルコの隣だからね。

なぜトルコがそんなことをしてくれたのか、最初は日本側は分からなかったらしい。

駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカンさんは言った。

エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。

この時トルコ航空では、パイロットに命の危険があるので、志願者を募ることにしたらしい。

俺はもうこれを知って泣いてしまったのだけど、パイロット全員が名乗り出てくれたそうだ。

日本でこのことを知って、あのおじいさんに申し訳ないことをしたと思った。それはまぁ、トルコに行くなら、そんな経緯を知ってから行かなきゃいけないよね。

俺が大好きなカート・ヴォネガットって小説家が書いていた。

「愛は死んでも、親切は残る」

まったくその通りだ。