大学時代に英語で読んだ『存在と時間』なのですけどね。私は哲学の専門家ではないので、ここから先の話は、あくまでも秋川ジルのハイデガー解釈ということで読んでくださいね。
ハイデガーは難解で有名なのだそうですけど、おそらく日本語に訳す過程でさらに難しさが増しているのではないかと思うのですね。原著はドイツ語ですから、英語翻訳の方がわかりやすいのかもしれない。
『存在と時間』を煎じ詰めたら、こういう感じになります。
①人のことを自分にとって得になるかとか、自分にとって役に立つかとか、そういう見方ばかりしている人が世の中には多い。ハイデガーはそういう人たちをダス・マンと呼んでいます。
②どうしてそういう見方を他人にしてしまうかというと、自分がいつかは必ず死んでしまう有限な存在だということを忘れようとしているから。そうなると、主体的に生きられなくなってしまいます。
③カントも同じようなことを言っていて、それは「人を手段ではなく目的として扱いなさい」という言葉なのですけど、手段としてしか人を扱わないダス・マンになってしまうと大変なことになるそうです。
④人を目的として扱うということは、その人がありのままで生きられるようにしてあげること。それができた時に、あなたは本当の意味で存在することができる。なぜなら「わたし」と「あなた」は相即しているから。
⑤だから、ダス・マンというのは本当の意味では存在していないんだよ。その他大勢に埋没して個性なんてなくなってしまう。あなたがありのままに存在したかったら、ちゃんと他人をありのままで見なさい。
これを書いていて『許されざる者』のウィル(クリント・イーストウッドが演じています)が「娼婦を人間らしく扱え」と言って住民を諭しているシーンを思い出した私は、やっぱり映画好きですね。まぁ、その前に保安官を撃ち殺したりしますけど。
ウィルは、ハイデガーリアンだったのか…。