『天才の心理学②』

エジソンに非定型発達を感じるのは、私だけではありません。発達障害があったけれど、その脳の特徴を活かして社会的に成功した人物として知られていますからね。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、モーツァルト、ウォルト・ディズニー、アインシュタイン、最近ではビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズもエジソン同様、非定型発達の脳を才能として活かした人物として有名です。

エジソンのエピソードの中でも、とにかく「なぜだろう?」と感じたことは質問しまくるという、質問魔の話は有名だと思うのですけど…1+1はなぜ2なのかという疑問を持ったエジソンは、粘土を持ち出して、小さな粘土1と小さな粘土1を足すと、大きな粘土1になるじゃないかと言ったそうです。ああ、これはいいなぁと思ったのですけど、こういう発想ができるのが非定型発達の脳だと思うのですね。常識に囚われないということですけど。

天才というと、この非定型発達の脳を持った人たちをイメージすることが多いと思うのですけど、それとは別のタイプの天才もいるのです。

『熊楠の星の時間』は中沢新一の南方熊楠についての講演録なのですけど、その中に『南方熊楠のシントム』という講演があって…異様な記憶力であるとか、思考法、研究法もそうですけど、全てにおいて過剰だった南方熊楠という人物のシントム(症候)について語っているのです。

天才ではあるけれど、その天才さというのは、ある種の精神的なシントムと同時に与えられたもの。あるいは、精神的なシントムを昇華させることで、精神病に陥らずに済んだという言い方もできるかもしれませんが…中沢新一は熊楠の他に同じようなタイプの天才として、ジェームズ・ジョイスとドストエフスキーを挙げているのです。

きたな…と思いましたよ。

はじめてドストエフスキーの作品を読んだ時(確か『カラマーゾフの兄弟』だったと思います)この小説は素晴らしいけれど、何かが変だと思ったのです。何が変なのかは分からないけれど、普通ではない。そう感じたのですけどね。ミハイル・バフチンのポリフォニー論を読んで、私の感じた「変」が何なのかについて、考える切り口のようなものは見えてきた気がしたのですけど、どうもまだしっくりいかなかったのです。

この「変」って何という疑問のようなものは、ある種の謎としてずっと考え続けていたことだったのです。