國學院大学に神道学科があるのですけど、そこを卒業された方の話を伺ったことがあります。生徒の多くは、有名な神社の跡取りであるとか、神社に関わりを持っている方だそうですけど、私の知人は、神道を通じて日本を深く知りたいと考えて入学したのだそうです。
キリスト教であれば、神学にあたるような講義がなかった訳ではないけれど、この先日本の神社をどう運営(平たく言ってしまえば経営だそうです)していくのかについての講義が多かったと話してくれたのですけどね…。
神社合祀が行われた際に、淫祠邪教呼ばわりをされたり、あまりにも小さな祠に祀られていたような神さまを中心とした社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)も失われてしまった。今まで自分たちの共同体の神さまだと、愛着を持って祭りを行っていた対象がいきなりなくなって、あの神さまは大きな神社に一緒に祀られることになったと言われても、すんなりと納得がいかない方も多かったでしょうからね。戦後にも神社は大きな危機を迎えていて、それは区画整理とか市町村合併が原因なのですね。村と村、地域と地域の境界線が変更されてしまうことによって、神社を中心とした共同体が崩壊していくことになったのだそうです。
外部を操作すると、人の心も変化してしまう。人の心というのは外部の影響を受けやすいし、変化しやすいものなのです。
南方熊楠が炯眼であったのは、明治39年に合祀反対運動をはじめた時点で、そのことに気づいていたことでしょうね。エコロジーというのは、結局のところ人間の心を守ることであると分かっていたのだと思うのです。
日本人が、ずっと同じ心の構造を持っている訳ではない。もちろんアメリカ人も、他の民族もそうだと思います。プラトンと現代のギリシャ人が同じように考えていることはないでしょう。それは頭では分かっていたのですけどね。中沢新一が書いているように、おそらく資本主義や合理主義が世界を覆っていく前の人間が、どのように考え、何を大切にしていたのか、そのことを思い出すことさえできなくなりつつある。
人間は容易に起源を忘却してしまう生物だからですね。あたりまえが変わってしまうと、過去のあたりまえを思い出すことができない。フクロウは見かけと違うのです。