『文学のふるさと(赤い靴はいてた女の子)⑤』

坂口安吾は言います。

「この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独―生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。(中略)それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる―私は、そうも思います。」

だからきっと野口雨情の言葉は、心に残るのでしょう。それが亡くした子供への鎮魂であるとか、そういう事情とは別に…救いがないこと自体が救いであるような、モラルがないこと自体がモラルであるような場所に、私たちの心を置き去りにしてしまう。それがきっと雨情の歌詞の特徴なのですね。

「赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった」この短い歌詞が私たちを運んでいくのは、きっとそういう場所なのです。でも、だからこそ、この歌はある種のスタンダードになり、きみちゃんというモデルの女の子の存在も発見され、そしてパティオ十番や他の土地にも像が建てられることになったのだと思うのです。

きみちゃんが宣教師のご夫婦に連れられてアメリカに行ったと信じていた母親は、その物語に救われ、本当のことを知っている私たちもまた別の物語に救われている。

最近サロンに出勤する時にきみちゃんに「おはよう」と言っているのですけどね。帰りは「さようなら」とか遅い時間なら「おやすみなさい」と言って帰ります。安吾の言う「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」それは確かにそうでしょう。だけど、この世界には救いもあるし、モラルもある。

私はそう信じていますけどね。