『文学のふるさと(赤い靴はいてた女の子)④』

坂口安吾は、続けて狂言について書くのですけど、こういう話です。

「大名が太郎冠者を供につれて寺詣でを致します。突然大名が寺の屋根の鬼瓦を見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第を訊ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。」

これもそうですよね。それはまぁ、理解することはできるけれど、そう言われても困る。途方に暮れる。そういう尻切れトンボのような感慨だけが残る気がします。

最後の話は有名ですけど『伊勢物語』の一節です。

「駈落することになって二人は都を逃げだしたのです。芥の渡しという所をすぎて野原へかかった頃には夜も更け、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駈けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに? と尋ねました。しかし、男はあせっていて、返事をするひまもありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入の中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍をもって押入れの前にがんばっていたのですが、それにも拘らず鬼が来て、押入の中の女を食べてしまったのです。生憎そのとき、荒々しい雷が鳴りひびいたので、女の悲鳴もきこえなかったのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまったことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問いしとき露と答えてけなましものを―つまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかった―という歌をよんで、泣いたという話です。」

安吾はこの3つの話をともにモラルがないと表現するのですけど、確かにモラルはないですね。え…?と、置いてけぼりにされたような気持ちだけを感じる。起こったことは、起こってしまって、それはまぁ確かにリアルな現実なのでしょうけど、なんだかいたたまれない。

だけど、現実というのは、そもそもいたたまれないものだし、ある種残酷なものかもしれない。

きっと、横浜埠頭で旅立つきみちゃんを見ていた男の子は、同じ感覚を感じたのでしょう。野口雨情が表現したかったのは、きっとその感慨なのだと思うのです。