『まっくろくろすけの場所⑥』

自分の内部にありながら、自分でも感知することのできない領域、フロイトはそれを無意識と名づけました。ユングはその最深部に集合的無意識を仮定したのですけど、それが本当に存在するかどうかは分かりません。

自分の中にあるのにも関わらず、そこに何があるのか分からない。自分の意識で感知することのできるのは、超自我が検閲した当たり障りのない何かなのですけど、時おり超自我の検閲をすり抜けて、無意識のリビドーが吹き出してくることがある。あるいは検閲されないように何かしら変形した形で意識が感知してしまうこともある。

無意識と意識の接触面に現れるのが、宿神であり、ミシャグジ神であり、シャグジであり、翁であり、マレビトなのでしょう。何かが「やってくる」場所というのは、心の構造を外部に投影したものなのかもしれない。私はそう思うのです。

だからこそ、郡司ぺギオ幸夫の『やってくる』で語られている離人症に似た経験を彼がした時の状況というのを、何かが「やってくる」回路を絶たれてしまって、言葉の世界の中に閉じ込められると表現したのでしょう。

私は「後戸の神」という呼び名が好きなのですけど、私たちの存在そのものを支えてくれている、懐かしい場所からやってくる神との接触を断たれてしまうと、この世界からは生の実感が失われてしまう。

昔の日本家屋の奥まった場所にあったような、薄暗がり。シンとしていて、ヒンヤリとしている。だけどちょっとだけ湿っぽかったりもする。『となりのトトロ』でまっくろくろすけが住んでいるような場所。そんな場所に、とてつもない懐かしさを想起させられるのは、そこが私たちの故郷だからですね。

深い森の奥に広がっていく闇、河原の藪の奥にある暗がり、洞窟の奥にある異世界、海の底にある光の届かないような場所、納戸の奥の薄暗闇、黄昏時の朧げな輪郭、靄に霞んだ風景。

そういう場所は(プラトンは、その場所をコーラと呼び、母性的なものと結びつけました)私たちのやってきた場所でもあるのです。まれびとのやってくる異世界のことを、私たちは本当はよく知っている。ちょうど、自分の無意識を本当は知っているように。だって故郷ですからね。

その場所から、何かがやってくる回路が断たれてしまったら…その時人は心を病んでしまうのだと思うのです。