学生時代の課題で読んだような覚えがあるのですけど、ジャック・デリダに『コーラ プラトンの場』という本があって、コーラという言葉に最初に出会ったのはその時だったと思います。でも、何だかよく分からないという印象しか残っていなかったのですね。
イデアというのは真実であり、原型にあたるもの。言ってみたら、ピタッとピントの合ったカラー写真。それを基にして、ぼんやりと滲んだような、セピア色の劣化版になっているのが私たちが現実だと思いこんで見たり、触れたりしている世界。だから人間は解放されてイデアを目指さなきゃいけない。プラトンのイデア論というのは、ざっくり言えばそういうことなのでしょうけど、じゃあ、どこでイデアから現実だと思いこんでいるこの世界が作られるかというと、それがコーラだと言うのです。コーラという場所のことですね。場所という仇名が本名のようになっているプラトンが考えた場所の概念。そういうことになります。
プラトンはコーラについて、捉えどころのない厄介な場所で、あらゆる生成変化がそこで生ずる場であり、イデアの受容者のこと。およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種のまがいの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるものと書いているのですけど、分かるような、分からないような…?
ジャック・デリダは、コーラについてきちんと説明してくれるのかと言えば、そんなことは全くなく(まぁ、あのデリダですから、さらに訳が分からなくなるのですけどね)プラトンの言っているままの解説なのですけど…ものすごく鋭いことを書いているのです。
コーラがなぜ難解かと言ったら、原理的な二項対立にもとづいた「真なるもの」と「必然的なるもの」の違いによると言うのです。「真なるもの」とは真なる言説のことで、二元論で語られる哲学や歴史のことです。「必然的なるもの」とは、真なる言説ではないものの、その前に遡ることで現れる必然性です。
この必然性の中で現れるものがコーラだと言うのですね。
遡ることで現れる場所。
「やってきた」何かに触れた時、デジャブを感じることがある。それは何かがやってくるのは、とてつもなく懐かしい場所だからなのかもしれません。