以前ここに書いた、郡司ぺギオ幸夫の『やってくる』という本ですけど…何だか気になってしまって、ずっとあれこれ考えていたのですね。
意味のある偶然と訳されることの多いシンクロニシティですけど、臨床の経験を積めば積むほど、そういうことが明らかに起こる。河合隼雄さんの話を引用しましたけど、アルコール依存症のクライアントが海に落ちて、死ぬことは苦しいから酒を止める決心をする…なんていうことが本当によく起こるのです。カウンセラーや医師が、そういう状況をコントロールすることはできないのですから恣意的に起こした訳ではもちろんない。だけど、それはあっさりと起こる。結果的に何かが変化する。
そういう何かが「やってくる」として、一体それはどこからやってくるのだろう?それが「やってくる」ために整えなければいけない条件があるのだろうか?
そういうことを考えていたのですけどね。考えていると、ちゃんと答えは「やってくる」ものだと驚いてしまったのですけど…民俗学と哲学、そして心理学の重なるような、古い思考の中に、その何かが「やってくる」場所についてちゃんと言及されていることに気づいたのです。つまり、私が考えていたことは、気が遠くなるほど過去からずっと人間が考え続けてきたことだったのです。
最近知ったことなのですけど、哲学者のプラトンという名前は仇名なのだそうです。実はプラトンはアテネで有名なレスリングの選手だったそうなのですね。広いという意味のPlatoから仇名をつけたのは師匠だったそうです。ちなみにPlatoは英語のPlaceの語源です。
そのプラトンですけど、なかなか説明の難しい概念について書いているのです。『ティマイオス』に出てくる「コーラ」という概念なのですけどね。
有名な洞窟の比喩でプラトンが語っているように、人間が現実だと思って見ているものは、実は真実の影にすぎない。真実の世界、それは人間には辿り着けない世界ですけど、そういう真実をイデアと呼びます。まぁ、ここまではご存知の方も多いと思います。
真実の世界=イデア界と、私たちが感じることのできる世界=現象界の2つの世界があるのですけど、そのどちらにも属しているし、どちらにも属していないという不思議なもう1つの世界=場がある。
プラトンはその場のことを「コーラ」と呼ぶのです。