『シャルル・ペパンとバカロレア⑤』
二人の囚人が鉄格子が外を見たとさ。
一人は星を見た。
アイルランドのアフォリズムだそうですけど、いい言葉だと思うのですね。
フッサールは「意識とは、何かを意識することである」と書いていますけど、シャルル・ペパンも同じ立場を取ります。自分以外の何かを意識することで初めて自分を意識できる。人間というのはそういうシステムで出来ている。そう考えるのですね。
友人が失神して、あなたは救急車を呼ぶことになります。オペレーターの方にあなたは言うでしょう。友人が意識を失ってしまったと。その時に友人が心を失ったとは言いませんよね。つまり失神しても心は失われない。意識というのは、心に浮かぶ泡のような無数の断片の中から、何かに焦点を合わせる能力を意味するのです。つまり、失神した友人は、何かに焦点を合わせられなくなっているということです。
何かを意識した瞬間に生じるのが自己だとすれば、何かに意識を合わせた瞬間に「私」が生じている。星を見上げる囚人は希望を持った自己を(シャルル・ペパンなら、彼には自信があると言うかもしれません)泥を見下ろす囚人は絶望を伴った自己を、その瞬間に形成している。
自己啓発書の多くが「自尊心」や「自己承認」といった自分の価値に対する自己評価を上げることを目的としている中で『幸せな自信の育て方』で扱われるのは「自信」なのですね。シャルル・ペパンは、こう定義しています。
「すなわち自信とは、不安があるにもかかわらず、リスクを取って複雑な世界に飛び込もうとする能力のことだ」つまり、行動することを伝えようとしている。
他者を信頼すること、自分自身の能力を信じること、人生全体を肯定することの3つがその行動を促してくれる。
では何のためにそうする必要があるのか?
教育者としての顔が、時々彼の文章には見え隠れするのですけど、きっとこう言いたいのだと思うのです。
思いもよらない偶発的な出来事が、これから君たちの人生には必ず起こる。人生は予測可能ではない。予期せぬ事態に対応するためには「自信」が必要だ。そして「自信」を持つことができれば、きっと鉄格子の向こうの星を見上げることができる。
星を見上げること。それを彼は自由になることと呼ぶのです。