『やってくる③』

『やってくる』の冒頭にジム・ジャームッシュについて語られているところがあるのですけど、ああ、分かるなぁと感じたのですね。

「しゃべりたいのにうまく言葉が出てこないときの口をすぼめて尖らせるもどかしさ、言おうと思う言葉を飲み込んで帽子をいじる所在なさ、そういったタイミングや文脈のずれに関する違和感が、しかし逆に心地よさにまで転回されていく。そういう体験がこの映画にはあったのです」

これを著者は「ジャームッシュの”マ”」と呼ぶのですけど、つまり”間”のことですね。ただまぁ、シーンが変わるごとに画面が真っ暗になるジャームッシュの特徴的な演出は、ヴィム・ヴェンダースの助手をした時にもらったフィルムがどれも短くて、仕方なくそうなったと語っているのを読んだことがあって…
これもまぁシンクロニシティのようなものだと思います。結果オーライというやつですね。

中沢新一によると、古典芸能の世界では”マ”と呼ばれているものは2種類あるのだそうです。学習することが可能な(師匠から伝達された)「間」と、その演者が持って生まれた「魔」の2種類なのですけど、特に後者の”マ”を持つ者が、例えば能の『翁』を演じると何かが「やってくる」ことになるのです。

『精霊の王』の中で中沢新一は、何かが「やってくる」場所のことを折口信夫を引用しながら、解説しようとします。


ところが、これは『やってくる』と同じなのですけど、ストレートにそれを言い表すことができないのですね。それは人間の限界と言うか、説明をするのに言葉を使っている以上どうしてもそうなってしまう。そういう状況なのです。


折口信夫は、そのような「やってくる」者のことを「まれびと」または「来訪神」と呼ぶのですけど、彼らが特別な時期に異界から私たちの世界を訪れるのには理由があるのですね。

それは、人間の世界、日常の世界を再活性化することなのですけど、それができるのは彼らが「やってくる」場所、または非場所かもしれませんが、その場所が私たちの故郷だからです。そのような場所と、我々の世界を繋ぎ直し、再活性化させる存在。それが能楽の「翁」であり「まれびと」なのでしょうね。

あるいは「宿神」とも呼ばれることもありますね。私が興味を持っている、抗い難く引き寄せられてしまう外部とは、きっと彼らがやってくる場所のことだと思うのです。