構造主義という現代思想のはじまりが、クロード・レヴィ=ストロースなのですけど、私は人類学者としてよりも、元祖構造主義者として考えていたのですね。
まぁ、それは決して間違いではないのでしょうけど、思想としての構造主義ばかりを考えてしまうと、なんだかずっと泥臭い何か、フィールド・ワークで彼が捉えた何かを見落としてしまうように思うのですね。
レヴィ=ストロースは、過去の人類学が無根拠に前提としていた考え方の2番目をひっくり返したのです。それは「ヨーロッパ人は新大陸やアジアの先住民族よりも進化している」という考え方ですけど…彼は文化に優劣はないと言い切っているのです。
いいぞ、レヴィ=ストロースと言いたいですね。
彼の用語である「野生の思考」とは、非合理で非理論的だと思われてきた「未開人」の遅れた思考法ではないのです。「科学的思考」と同じように合理的であり、人類にとっても普遍的な思考法なのです。
マリノフスキは、古い考え方の1番目をひっくり返して現地調査に行きました。
「書を捨てよ町へ出よう」の寺山修司みたいだなと思うのですけど…
この2つの前提が覆ったことで、人類学は人間と真摯に向き合うことができるようになったのでしょう。構造主義は、そこから生まれたのだと思うのです。
構造主義は、どんな対象であっても構造分析という手続きで理解可能だと考えられている方もいるかもしれないですけどね。さすが人類学者と感じるようなことを晩年のレヴィ=ストロースは言っています。
「私の選んだ研究方法が現象世界全体を包括できないことも承知しています。
たとえば天気予報のために作られた数理的なモデルが、夕日を見て我々のうちにわき起こる感動を説明できないのと、それは同じです。」
構造を見出すということは、自分がよく知っている事柄を未知の何かに見出すこと。
つまり、これは、あれだと考えることですけど、それは置き換えなのですね。
だけど、その置き換えが最終的な意味にたどり着くことは決してない。
我々にできるのは夕日を見てうちにわきおこる感動を味わうこと…
それは分析できなくていいのです。
「生のインポンデラビーリア」きっと、マリノフスキならそう言うでしょう。