『失ってから気づくということ⑤』

そう考えていくと(まぁ、つらつらと考えているうちに、ワインをかなり飲んでしまっていることに気づいて愕然としたのですけどね)ハイデガーが『存在と時間』で語っている「死を忘却すること」の意味が分かってきたのです。

カウンセリングのクライアントからも、あるいはちょっとした過去の話を友人とする時に聞くこともありますけど…何かを失ってから、その何かの重要さにやっと気づく。そういう傾向が人にはあるのですね。

それならば、あなたはあなたの人生が、かけがえのない重要なものだったと、死んだ時に気づくことになるでしょう。自分と縁のあった多くの人たちの重要さも、美しい風景や、美しい感情の重要さにもね。

まぁ、何しろ死んでしまっているのですから、それを感じる時間はないかもしれないですけど。

自分の損得ではなく、ちゃんと人と向き合えばよかった。大切な人をありのまま見てあげたらよかった。そのことに生きている間に気づけばよかった。そう後悔するかもしれない。

ハイデガーは、後悔するかもしれないじゃなくて、絶対に後悔するんだよ。だから、生きているうちから「死を忘却するな」と言いたかったのではないでしょうか?

『ルックバック』という映画が私を運んでいった場所は、そういう「エウレカ!」とでも叫びたくなるような場所でした。

『ルックバック』の主人公が、かけがえのない友人と過ごした時間。その時間は、彼女をありのままに存在させる時間であったこと。そして、自分もまたありのままに存在することができた時間であったこと。彼女は失われたかもしれないけれど、彼女の存在によって、ありのままに存在することを許された自分の時間は続いていく。

「存在」とは全ての「時間」を生きること。生きさせてもらうこと。『存在と時間』は、そのことを伝えたかったのではないか。

ハイデガーが、この映画を見たら、いったい何と言うのでしょうね。