『ジュンパ・ラヒリのテクスト②』

サザンオールスターズの『蛍』は特攻隊を描いた映画の主題歌ですけど、歌詞の内容はあの時代の若者の心情を綴ったものになっています。

だけど、それ以前に「蛍」という言葉の持つ趣とでも呼ぶものを日本人が共有しているからこそ、戦争の悲劇を背負うことになってしまった若者たちを表象するタイトルとして使われたのでしょうし、あの淡い光は「魂」のメタファーとして相応しいものだったのだと思うのですね。

「蛍」を「firefly」と呼ぶアメリカでも、ベトナム戦争の悲劇を扱った映画はたくさんありますし、そういうせつない心情がアメリカ人にない訳ではありません。ただ、その気持ちを「蛍」という言葉で表すことがないだけですね。

パウロ・コエーリョの『アルケミスト』では、「マクトゥーブ」というアラビア語を本当に理解するためには、アラビア人に生まれなければいけないというセリフがありますけど(それは、すでに神によって書かれている、つまり最初から決まっているという意味だそうです。)きっとそれも同じことなのでしょう。言葉を本当に自分のものとしたかったら、その言葉を母語としている世界に生まれて育つ他ないのだと思います。

だからこそ、そのことを実感として知っているからこそ、複数の母語を持つ者は言葉の扱いに慎重になるのだと思うのですけど、その傾向は作家としてのジュンパ・ラヒリにはプラスに働いたでしょうし、精神科医としての私にも役に立っています。

前回「言葉の持っている、物理的な濃度のようなものが上がる」という話を書きましたけど、時々言葉の手触りのようなものを感じることが本当にあるのです。

サマセット・モームの『雨』を読んでいて、何だか文庫本が湿っているように感じたことがあるのですけど、そういう感覚と似ているのですね。「にわか雨」と言われてもそうでもないのですけど、読んでいる本に「驟雨(しゅうう)」なんて出てきただけで、あ、洗濯ものを部屋に入れなきゃとか、反射的に感じてしまう。そういうことです。

そうそう、きっと言葉に対して敏感なのでしょうね。