次に登場してくるのは、いわゆるマハトマ・ガンディーのようなグループです。
非暴力、非服従ということなのですけど、誰も傷つけないことを信条としている。もちろんゾンビは別でしょうけど。
製作者が最も接近していくのは、宗教団体を作って、ゲーム内で活動している牧師と呼ばれている男性なのですけど、狼の姿をした神がゲーム内に存在することを説いているのです。
彼は、コロナ禍で現実の生活が大変だった時期にゲームを離れている期間があって、またゲームに戻ってきているのですけど、現実世界の自分自身のことを語るのです。
まぁ、意識を持った人間にアバターを与えて、異世界に放り込んだら…そういう意味ではこのゲームは壮大な社会実験めいて見えてきますけど、現実世界をなぞるようなことになるでしょうね。それにしても、宗教まで生まれるとは。
でもね…。
現実世界の生活が満たされていないから、ゲームを逃避先としているとか、そういう紋切り型に収まらない何かを求めて、プレイヤーはゲームの世界にログインしてきているように感じたのですよね。
これは何なのだろうと、映画を見ながら、そして映画を見終わった後も考えていたのです。
数年前に文化人類学者のナターシャ・ダウ・シュールが発表した『デザインされたギャンブル依存症』という本があります。
アメリカのラスベガスで長い時間をかけて、ギャンブル依存症の方たちにインタビューをし、依存症を生み出すメカニズムについて調査した本なのですけど、かなり意外な結論に至るのですね。
ギャンブルといっても、ポーカーとかルーレットよりも、マシン・ギャンブリングと呼ばれている1人で機械を相手に黙々とプレイすることが主流になってきているのが現状で、実際依存症に陥っている方のほとんどがマシン相手の賭けごとにハマっているそうです。
「私は勝とうとしてプレイしているんじゃないんです」
「プレイしつづけるため(他の一切がどうでもよくなるハマった状態)つまり、マシン・ゾーンにいつづけるため」
にプレイをしている。
これはマシン・ギャンブリングに依存している方が述懐した内容なのですけど、どうも…ゲームの中の異世界で長い時間を過ごすプレイヤーの心理というのは、これに似ているのではないか。
そう思ったのです。