『玉置神社・闇の奥③』

精神医学の講義を日本で初めて行ったのは、ヴィルヘルム・デーニッツとされています。
1875年のことです。医学者であり、動物学者でもあった彼は、明治政府の依頼で来日したのですね。

1879年にも内科医だったエルヴィン・フォン・ベルツが精神医学の講義を行っています。
彼は狐憑きだとみなされた女性の診断、治療をして論文『狐憑病説』を発表しているのですけど、その症状を脳の障害に起因するヒステリーであるとしています。

ベルツには日本の温泉を世界に紹介することや、箱根富士屋ホテルに女中の手が荒れているのを見て「ベルツ水」という今でいう化粧水を考案したことなど、エピソードがたくさんあるのですけど、おそらく最も有名なのは「蒙古斑」を命名したことでしょうね。

その彼が残している文章の中に、こういうものがあるのです。

「不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、
「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。
このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。
なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。」

廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた当時の日本から、廃棄されそうになった仏像などを海外に持ち出す活動もしていたそうですから、かなり冷静に日本の近代化を観察していたのだと感じますね。

ともあれ、狐憑きは、いわゆる心霊現象ではなく、精神病だとする見方が明治期にようやく始まったわけです。

ただこの流れを作ったのはベルツが初めてではありません。すでに江戸時代後期に日本人の中から狐憑きを精神の錯乱と定義づける学説が始まっていたのです。

文化年間、鳥取藩の医家の陶山大禄は、狐憑きが荒唐無稽だとして「狐憑は狂癇の変証にして所謂卒狂これなり、決して狐狸人の身につくものにあらず」と論じているのです。