『文学のふるさと(赤い靴はいてた女の子)①』

パティオ十番のきみちゃんの投稿を読んでくれたお客さまから、「赤い靴の女の子」というクッキーをいただきました。

横浜のお土産として販売されているそうなのですけど、わざわざ本当にありがとうございました。彼女は、きみちゃんがアメリカには行っていなくて、麻布十番で亡くなったことをはじめて知りましたと仰っていました。

そうですよね。私も含めてうちのスタッフ全員知りませんでしたから。

それにしても、「赤い靴」の歌というのは、なぜか忘れられないというか、心のどこかにずっと残ってしまうような不思議な感慨があるのですよね。

私がこの歌をはじめて知ったのは、アメリカから父親と一緒に日本に来ていた時だったと思うのですけど…美しい寂しさ、そして、言葉にするのは難しい感覚なのですけど、何が起こっているのかわからないけれど、それでも納得しなければいけないような強制力を感じたんですよね。
世の中って、私が納得しようがしなかろうが関係なく、そういうものだから受け入れる他ない…とでも言うような。

「赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった」

なぜ外国人につれられて行ってしまうのか?そこには、どういう事情があるのか?

そういうことが全く分からないけれど、異人さんという言葉と(女の子の特徴の描写は、赤い靴をはいているだけなのですけど)赤い靴という言葉がなにか不思議な感覚を心の奥から引き出すというか、何か呆然としたようなやるせなさが湧いてくるのですよね。それ以降の歌詞を読んでも、全く事情はわからない。さらに不思議な内容に歌詞はねじれていくのです。

「横浜の埠場から船に乗って 異人さんにつれられて 行っちゃった
今では青い目になっちゃって 異人さんのお国に いるんだろう
赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび 考える」

異人さんは青い目をしているのですから、彼女が横浜から行ってしまったのは、アメリカやヨーロッパだろうということはわかります。

だけど、違う国で暮らしたからといって、身体的な特徴が突然変化する(青い目になる)ようなことはないですから、赤い靴の女の子を回想しているのは、おそらく子供ですね。そうなると、この回想者と女の子の間には何か関係があったのだろうかと考えてしまうのですけどね…?