『やってくる』の本の中で「やってくる」ものが一体何なのか、あるいはどういう状況の時に「やってくる」のかについてストレートに説明されることはありません。
まぁ、それはそうですよね。郡司ぺギオ幸夫の言うところの「やってくる」ものとは、外部から出現する何かとしか言いようがないですから。言ってみたら「知らないことさえ知らない何か」が「やってくる」のですから、事前に準備したり言語化できる筈がないのです。
著者は、こういうことなんだよと、その何かの周囲をぐるぐると巡るようにして懸命に説明するのですけど、この方法というのに面白さを感じたのです。
というのも、ユングがシンクロニシティと呼んだ事態に、何かが「やってくる」事態というのは近しいと感じたからなのですね。意味のある偶然と訳されることもあるシンクロニシティですけど、例えばこういうことです。河合隼雄の著書からの引用です。
アルコール依存症で、家族から強制的にカウンセリングを受けさせられていた男性がいた。彼は酒を止めるくらいなら死ぬほうがマシだと言うのです。
河合さんは話を聞いて放っておいたのですね。酒を止めろとか一言も言わない。相変わらずお酒は止めないのだけど、なぜかカウンセリングには素直に毎週やってくる。そういうことがしばらく続いた後に、ある日男性がもう酒は止めましたと言い出すのです。
友人に夜釣りに誘われて行ったのだけど、防波堤から海に落ちてしまった。水を飲んで溺れた。今まで死ぬほうがマシとか散々言ってきたけど、いざ死ぬとなると、これは本当に苦しい。それでもう酒は止めました。
彼はそう言うのです。
酒を止めるためのカウンセリングだったけど、酒を止めさせようとはしなかった。だけど、結果的にシンクロニシティが起こって、酒を止めることになる。
カウンセラーが夜釣りに誘った訳でもないし、海に突き落とした訳でもない。
だけど、それはただ起こる。なぜなのかは誰にも分からない。きっと無理に説明しようとすると…それこそ運命とか神とか、そういう概念を持ち出さなければいけなくなるでしょう。
なぜ?を超えてしまうような場所から、それは「やってくる」。
そして何かしら決定的な変化を人に及ぼしてしまう。「外部」。
その場所に私は興味があるのです。