『普通の人を生きる⑤』

私を支えてくれるのは、他の人たちからの「いいね!」だけ。もう神さまもいないし、社会全体がこうだと考えているような「大きな物語」も終わってしまった。

だから、「いいね!」してもらえるように、いじコミのバトルフィールドで戦わないといけない。今の社会って、そういう社会なんですよ。『普通という異常』はそういう結論を提示してくるのですけど、臨床の実感としても同じことを感じています。

同じ空色のランドセルを使っているAちゃんを、Bちゃんがイジメのようなちょっかいを出したという最初のエピソードですけどね。Bちゃんの動機がこれではっきりしたと思うのです。

「色、金、名誉」を巡って、いわゆる普通の人は戦っているのですから…
Bちゃんからしたら「空色のランドセルの女の子」として承認してもらうのは、自分1人でなければいけなかったのです。同じクラスに空色のランドセルを「いいね!」してもらえる子は、2人はいらない。

そこまではっきりと自分の行動について理解してはいなかったでしょうけど、彼女はAちゃんを同じ「いいね!」を巡って争うライバルとして認識してしまった。それがスタートだったのでしょう。

ですから、Bちゃんが特別悪い子という訳でもないし、性格に問題がある訳でもないでしょうね。「対人希求性」が強かったとは思いますけど。Bちゃんは「いいね!」をもらって承認してもらうために、手段を選ばないようなことをしてしまったのですけど、斎藤学が言う「拍手をもらうためなら、かなり危険で無理なことまでやってのける」

あるいは、アメリカ自閉症協会の有志が普通の人に対するパロディで書いている(と言っても、的を射ていると思いますけどね)「非常に奇妙な方法で世界を見る。時として自分の都合によって真実を歪めて嘘をつく」

「社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりする」ことを実行しただけです。それほどに「いいね!」をもらうことは切実なのでしょう。何しろ、自分を支えてくれるのは他者からの承認だけなのですから。

これはもう、脳が他の動物よりも発達した人間の宿痾のようなものなのですけど、そこから抜け出る方法はないのか?

「相手が自分のことをどう考えているか」よりも、「自分がどうしたいのか」を優先せざるを得ないような何かに出会うこと。

きっと、それしかないのでしょうね。