虫であるとか、恐竜が大好きな女の子Aちゃん。ちょっとADHDの傾向があるタイプの子です。
もう1人の女の子はBちゃん。クラスのボス的な存在で、友達も多い女の子です。
この2人が空色のランドセルをクラスで2人だけ使っていたことから、問題が発生する。
『普通という異常』はこのエピソードから始まります。
Bちゃんは取り巻きのような同級生も動員して、Aちゃんの気を惹く戦略を取り始めます。イジメの
ようなことも起こるのですけど、Aちゃんには期待したようなダメージを与えることはできない
のですね。
「相手が自分のことをどう考えているか」が、「自分がどうしたいのか」よりも優先される
マジョリティのBちゃんは、相手もきっとそうに違いないという前提で戦略を立てるのですけど、
「自分がどうしたいのか」だけを優先して生きているAちゃんには効果がない。あるいは気の強い
Aちゃんに言い返される。
そういうことが続いた結果、2年生で別々のクラスになったことで、この問題は立ち消えになって
いくのですけど、兼本浩祐は、だからBちゃんが悪いとか、そういう風には考えないのですね。
いじわるをするコミュニケーション(いじコミと兼本浩祐は書いています)というのは、
定型発達…つまり普通の人においては当たり前のことだと、そう言うのです。
「いじコミというのは、適度な量のいじわるをお互いの社会的階層(子ども社会のなかでの
大げさにいえば、スクールカーストのようなもの)や個人的力量に応じて小出しにジャブ打ち
しながら、自分の子ども社会における立ち位置を決めていく技術のことです。」
このいじコミによって成立する社会が、一応の完成を見るのが女の子の場合は10歳頃
なのだそうです。
つまり、普通の人の世界とは、そもそもいじコミで成り立っている。人が人を求めることを「
対人希求性」というのですけど、普通の人の対人希求性というのは、周りの人の承認を誰が
受けるのかを競い合う競合的な性質を帯びていて、普通の人というのは宿命的にいじコミの
バトル・フィールドに投げ込まれ、生涯そこで生きていくことになる。
普通の人を生きるのって、なかなかに辛いことであるようです。