『自由という刑罰①』

オリンピックが開催されているパリですけど、仕事で何度か訪れることはあったものの、観光らしきものは何もしていないのですよね。

エッフェル塔や、凱旋門の隣を通り過ぎたくらいのものです。

だけど、ちょっとだけホテルに戻る前に時間ができたことがあって、唯一行ったのがサン・ジェルマン・デ・プレのカフェ・ド・フロールなのです。

サルトルとボーヴォワールが常連だったカフェです。パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』にも登場しますよね。

今では観光客だらけですけど(オリンピック開催中はさらにそうなっているでしょうね)当時の雰囲気を感じることができるのです。寒い季節でしたけど、淡いピンクとグリーンで統一されたテラス席に座ってChocolat Chaud(ホットチョコレートですね)を飲みました。

サルトル夫婦(まぁ、籍は入れてなかったみたいですけど)は2階を使っていたと聞いていたので、ちょっと見学させてもらったりとか、仕事以外のパリの思い出です。

サルトルは『実存主義とは何か』にこう書いています。

「もし神が存在しないとすれば、われわれは自分の行いを正当化する、価値や命令を眼前に見出すことはできない。われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。」

じゃあ、自由の刑というのは、どういう刑罰なのか。そのことについて書きたいと思います。