「アウラ」といえば、ベンヤミンの言葉なのですけど、なかなかにややこしい概念なのですね。
「アウラとは、一体何か? 空間と時間の織り成す一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な現れである。夏の真昼、寛ぎながら、地平に連なる山並を、あるいは見つめている者に影を落としている木の枝を、瞬間あるいは時間がそれらの現れに関与するまで、目で追うこと――これが、この山並のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである」
ベンヤミンは『写真小史』にそう書いていますけど、まぁ写真論ですからね、ここでの「アウラ」は視覚に限定されています。その後ベンヤミンの中で「アウラ」の意味は変化していくのですけど、私が何かを「まなざす」時に、まなざされた何かが私を「まなざし返す」という現象が起きる。その相互の関係の中で生まれる何かを「アウラ」と呼ぶようになっていきます。
有名な『パサージュ論』ではアウラについて、こう書いているのですね。
「痕跡とアウラ。痕跡は、それを残したものがどれほど遠くにあろうとも、ある近さの現れである。アウラは、それを呼び起こすものがどれほど近くにあろうとも、ある遠さの現れである。痕跡においては、私達が物を捉える。アウラにおいては、物自身が私達を捕える」
哲学的な言い方をすると、「アウラ」とは主体と客体が溶け合ったような状態、あるいは主体と客体の間に形成される何かであって、それは客体の側から私たちを捕らえるようにやってくるものであるということになるのだと思います。
おそらく木村敏は、ベンヤミンの考え方を踏まえて、祝祭(これはおそらくミハイル・バフチンのドストエフスキー論からきている言葉でしょう)を意味する「イントラ・フェストゥム」という時間感覚を、癲癇を持つ者特有の感覚と考えたのだと思うのです。
ミハイル・バフチンは、ドストエフスキーの小説をポリフォニー小説と呼んでいますけど、ポリフォニーというのは音楽用語からきています。
さまざまな異なるピッチやリズムの声部が入り混じる音楽のように、異なる立場、意見、人格の登場人物が小説内に存在して、他の登場人物と対等に対話している小説…ポリフォニー小説というのはそういう概念なのですけど、それは一人一人は存在するけれど、熱狂の中で全体として一つになっていく祝祭のようだと言うのです。