蛙化現象(かえるかげんしょう)とは、好意を持つ相手が自分に対して好意を持っていると分かると、それがきっかけとなって同じ相手に嫌悪感を抱いてしまう現象のことだそうです。
最初に使われたのは、2004年に藤沢伸介さんが発表した論文『女子が恋愛過程で遭遇する蛙化現象』だそうなのですけど、最初に聞いた時は、これってウディ・アレンのネタみたいなものかなと思ったのですね。
ウディ・アレンの映画『アニー・ホール』の冒頭で、グルーチョ・マルクスの自虐ネタが引用されます。
私を会員にするようなクラブには入りたくない(I would never wanna belong to any club that would have someone like me for a member.)がそれなのですけど、蛙化現象もそういうことかもしれないと思ったのです。
つまり、自分が一方的に好きになるのはいいけれど、相手が自分を好きになると、こんな私を好きになるなんて気持ち悪いと思ってしまう…つまり、蛙化現象が起こるタイプというのは、自分のことを好きではないのかもしれない。
この意見は間違っていはいないと思いますけど、どうも事態はもっと複雑なようなのですね。
ちなみに、論文のタイトルにあるように、当初は女性に見られやすい現象とされていましたが、2020年の大学生を対象とした調査では、蛙化現象は女性特有の現象ではなく、男女とも20パーセント前後の人が経験していることが報告されています。そして、蛙化現象が生じる原因は多岐に及ぶようです。
恋愛が成立すると、必然的に性行為が含まれる。性行為に対する嫌悪感が原因。
自分が、性的な対象として見られていると思うと気持ちが悪くなる。
恋愛そのものに恋していて、現実として恋愛がうまくいく必要はなかった。
追いかけているうちは楽しかったのに、相手を獲得することに成功したら冷めてしまった。
他にも原因はたくさんあるのですけど、どれも自分のことを好きではないという自己承認の低さが根底にはあるように思ったのですね。でも、きっとそれだけではないですね。
カントの哲学の中心概念に「物自体」という考え方があります。感覚によって経験される「物」には、経験を生み出す何かが前提としてあるはずだ。だけど、そうした「物自体」を経験することはできない…そういう考えのことです。
サルトルのいうところの「実存」ですね。そしてサルトルは「実存は本質に先立つ」とも言っています。存在は価値や意味よりも先に位置するということです。そして、サルトルは、全ての「物自体」はただ偶然存在し、また自分という「物自体」も偶然存在し、その「物自体」には何の意味もないということに触れてしまった時、耐えようのない嘔吐感が襲ってくるという『嘔吐』という小説を書いているのです。
イケメンだとか、高学歴だとか、優しい恋人とか、そういう価値や意味よりも先に、一人の異性、もっと言うのであれば、異性の動物(動物ですから、体臭もあるでしょうし、トイレにも行くでしょう)としての「実存」がある。それに触れてしまった瞬間に気持ち悪くなる。そういうことではないかと思ったのですね。
つまり、好きになった相手のリアルを見ていなかった。恋人というのは心理的にも、物理的にも近接するのが普通ですから…近づきすぎると毛穴が気になった。平たく言うと、そういうことですね。
蛙化現象は、自己中心的な恋愛の帰結だと思うのですよね。恋愛からくる高揚感だけが欲しくて、恋愛の相手をちゃんと受け入れるつもりは最初からなかった。う~ん。なんだか悲しくなりますよね。
谷川俊太郎さんの詩に「ほんとうに出会ったものに、別れはこない」という一節がありますけど、そういう恋愛ができたらいいですね。