『自分を知るということ①』

ボストンの学生時代に見た、ゴーギャンの絵のことをよく思い出します。正確には絵そのものよりも、タイトルの方を思い出すのですけどね。

『D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?(私たちはどこから来たのか 私たちは何者か 私たちはどこへ行くのか?)』というそのタイトルは、誰にとっても謎であると同時に、私の職業と深く関わってくる問いだからだと思います。

例えば、セロトニンという脳内伝達物質が「快」や「幸福」という心的な状況を作り出す。私たちはその状態を感じることはできるのですけど、なぜそれが生じるのかについては科学的な研究を必要とするでしょう。おそらくほとんどの人間にはセロトニン受容体があると思いますから…セロトニンを解き明かすことは、ゴーギャンの問いのごくごく一部とはいえ、答えることにつながっているのではないか。そう思うのです。

科学的な方法でも、そうでない方法でも、あらゆる探究は、ゴーギャンの問いの一部を内包していることになるのかもしれないですね。

ところが、そんな人間という種に対する問いどころか、私たちは自分個人のことさえ分からないことがほとんどです。

誰かから、あなたってこういう人よねと指摘されて…え、自分ってそういう風に思われているのかと憤ることは誰もが経験することですし、カウンセリングで自分が話した内容に自分で驚くなんてことは、むしろそちらの方が一般的ですしね。

ゴーギャンの問いに即して言えば、2番目の問いが最も分からない。「あなたはどこから来たのか」と問われれば、おそらく両親の顔が浮かぶでしょう。あるいは、故郷の風景かもしれません。「あなたはどこへ行くのか」と問われたら、残念ながら最終的にはあの世ということになるでしょう。だけど「あなたは何者か」という問いに答えるのは本当に難しい。むしろ家族や友人の方が知っているかもしれない。「私」とは大きな謎なのです。