木村敏が「イントラ・フェストゥム」と呼んだ、一瞬に全てが凝縮されたような時間感覚。自我が溶け合うというよりも、他者も物も全てが溶け合ってしまうような体験。個々の存在は明確に区分されていたとしても、全体として一つとなってしまうような体験のことですけど、それを癲癇発作の最中に感じる。
それは突然「やってくる」ものなのですけど、症候を起こさせないためには、それを代替する何かが必要なのでしょう。
南方熊楠は、学問に打ち込む、それも過剰としか言いようのないようなエネルギーを注いで研究をすることが、症候を代替している。あるいはそれ自体がすでに症候なのかもしれないですね。ただ、奇人と言われてしまうような行動をとっていたとしても、現実には対応することができているのですから、精神疾患に陥らずに済むことになる。中沢新一は、そのことを「学問としてのシントム(症候)」と呼びました。
同じように、モーツァルトにとっては音楽が症候だったのでしょうし、ドストエフスキーにとっては賭けごとにのめり込むことと、小説を書くことが症候だったのだと思います。
変わり者と呼ばれることはあるかもしれないけれど、何かに打ち込むことで、かろうじて現実と繋がっていられる。社会で生きていくことができる。
ある種の狂気を封じ込めるために行う何か…それは儀式性を帯びてくるものなのですけど、特殊な癲癇という持病を持ったドストエフスキーだからこそ、あの小説が書けたのだと思うのですね。自分が触れた世界の本質(それは無意識の領域に触れること=快感原則に触れることを意味します)を描き出すことに、きっと「快」を感じていたのでしょう。生きているという実感、自由の感覚でしょうね。
天才というのは、そういうものなのかもしれません。天才と呼ばれた人たちの多くが、ちょっと変わり者であったりするのは、成し遂げた何かそのものが症候であったからだと思うのです。
私がドストエフスキーの小説に感じ取った「変」だという感覚は、その症候に触れたからではないか。私がたどり着いた結論はそうなります。
そうそう、永遠としての現在を感じる「アウラ」と呼ばれる意識体験と聞いて、思い出したことがあるのです。