『自分を知るということ③』

神学者のラインホルド・ニーバーは、こう言いました。

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを見分ける知恵を与えたまえ。

それはまぁ確かにニーバーの言う通りだと思うのですけどね。これを「私」に適用するとしたら、まず「私」を「知る」ことから始めなければいけない訳です。知らなければ、変えるも受け入れるもありませんから。では、どうやったら自分を知ることができるのか?


それは、NYメンタルケアサロンでカウンセリングを受けることです!ジャーン!


そういう感じでコマーシャルのような文章が書ければいいのかもしれませんけど、私にはそういうことはできません。したくない…そう言ってもいいかもしれません。こういう方法もありますよとか、こういう研究がありますよとかを文章にして、自分のささやかな経験から感じた取ったことを書き添える。それが私の文章のスタイルだからです。書く内容は文体に規定されることがほとんどですから、私が誰だかはっきりと分からなくても、少なくともこの文体は「私」の一部を表している。

なぜ、そのような文体になったのか?恥ずかしがりだからなのかもしれません。この文体が美しいと思い込んでいるからかもしれない。そうなると「美」というものを、それがどのような「美」であれ優先させることを重要だと考えていることになるでしょう。以下ずっと続きます。

自分を知るということは、きっとそういうことだと思うのです。

ああ、「私」のコアが見つかった。そういう日はおそらく来ない。触れることのない「私」の周囲を、まるで臆病な衛星のようにぐるぐると回り続ける他ないのかもしれない。

一般的に「性格」と呼ばれているものは、何かに対する反応のことを指すそうです。目の前で誰かが転んでしまう。素通りするのか、赤の他人でも手を差し伸べて立たせてあげるのか…その反応の傾向が蓄積された結果として、私たちは「あの人はこういう人だよね」と判断している。判断した結果として、信じていい人かどうか類推している。だから「誰か」そのものに触れている訳ではないのです。

「私」とは第一の他人だという言葉がありますけど、こと「私」に関しては、私自身も他の誰かも、それを観察する立ち位置は同じなのかもしれないですね。