『文学のふるさと』

坂口安吾が好きなのですけどね。

神経がおかしな具合に疲れてしまった時に、ワインを飲みながら安吾の本を読んでいると、翌朝なぜかスッキリ目覚められる。世の中には、そういう種類の本があるのです。

デカダンと言ってしまえば、それまでなのかもしれないですけどね。かといって、ランボーやボードレールを読んで、同じことが起こるかと言ったら、そうでもないのです。

その安吾に『文学のふるさと』という小論があります。

童話の『赤ずきんちゃん』のオリジナルを引用するところから、その小論は始まります。

純真無垢で悪いところなんて何一つない赤ずきんちゃんが、森に入っていく。ご存知のように、おばあちゃんのところに行くためなのですけど、オリジナル版では、おばあさんに化けたオオカミに赤ずきんちゃんが食べられてしまう。話はそこで終わりです。

猟師さんが助けてくれる話はと思うでしょうけど、あれはきっと後付けなのです。

安吾は言います。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

ユングの心理学には「太母(Great Mother)」という概念があります。

自分でも感じることのできない無意識の、ずっと奥に存在するのが太母です。包み込んで育むというポジティブな側面もある反面、飲み込んで消滅させてしまう、つまり「死」の象徴でもあるのが太母なのですけど…私たち人間は、そういうものに触れないようにして生きているのですね。

いつか誰だって100パーセント亡くなる。それは事実なのですけど、そのことには触れないように生きている。それと同じです。

だけど、ふっと、そういうモラルとか、意味がまったく通じないような暗黒に触れてしまうことがある。

赤ずきんちゃんは、食べられてしまいました。終わり。

その時に感じる、あっけにとられた感じ。その時、きっと読者は太母という存在に、ほんの少し触れてしまうのだと思います。

むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。

私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる…私は、そうも思います。

安吾はそう書いた後に、このように小論を結んでいます。

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから…。

だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。

太母に抱かれるような経験をすると、それはもちろん生きるか死ぬかという瀬戸際まで行くことになりますから、恐ろしい経験になるでしょうけど、人は強くなります。ある種の生まれ変わりを果たす訳ですからね。

そのことをイニシエーションと呼ぶのですけど…そうなると安吾が言いたいことは「イニシエーションをくぐり抜けた者が書いたものでないと、俺は信用しないよ」ということになるのでしょう。

ほとんどイニシエーションのない世界に、現代人は生きています。カウンセリングというのは、もしかしたら自分を深く覗き込むことで、イニシエーションの代理になっているのかも。清々しい顔でカウンセリングを卒業されていく方たちを見ていて、最近そう思うのです。

             撮影カメラマン  松原 充久