『悪について』

日本でもベストセラーになったM・スコット・ペックの『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』という本がありますけど、どうもアメリカと日本では、違った受容のされ方をしているようなのです。

日本語版の方はキリスト教色が色濃い部分を除いているので、精神科医の書いた本として読まれているようなのですけど、福音派の宗教書としてアメリカでは扱われています。

ですから、彼のしている「悪」についての定義も、純粋な精神医学的な考え方というよりも、キリスト教的な定義に近しいかもしれないですけどね。

どこにでも住んでいるようなごく普通の人間である。

罪悪感や責任感に耐えることを拒む。

他人をスケープゴートにする。

自分だけの論理しか認めない。

このような人間のことをM・スコット・ペックは「悪」だと言うのです。

昨年のカンヌ映画祭でパルムドールを獲った『落下の解剖学』を見てきたのですけど、まさに「悪」についての映画でした。夫を殺した疑いをかけられた妻。映画は裁判を中心にして進んでいきます。夫が画面に登場するのは誰かの回想シーンのみで、それぞれの証言者がそれぞれの夫の主観的なイメージを持っている。つまり客観的な視点からの描写が夫にはされないのです。映画の構造として、そのやり方が効果的なのですね。真実に到達しようとすると、その真実は常に揺れ動いてしまうのです。

ところが、精神科医としてこの映画を見ていると、徐々に結末というのがどうでもよくなってきたのですね。それよりも、妻を演じているザンドラ・ヒュラーを見ているのが怖くなってきました。彼女の演じているキャラクターは「悪」なのです。M・スコット・ペックが定義した「悪」ではあるのですけど、それだけではないのです。『羊たちの沈黙』のレクター博士のようなサイコパス的な悪でもあるのでしょうけど、やはりそれだけではない。

彼女の持っている「悪」というのは、自分が「悪」であることに気づいていないような「悪」なのですね。

演じているザンドラ・ヒュラーも、そして脚本を書いたジュスティーヌ・トリエ監督も、きっとそのような「悪」が存在することを知っている。映画がラストに近づくほど、この「悪」というのは裁判で裁けるような類の「悪」ではないことがわかってくるのです。

怖いでしょ?

『落下の解剖学』を見ていて、ずっと思い出していたのが『ダメージ』という映画でした。イギリスの下院議員が息子の婚約者と不倫関係に陥る話です。

実の兄と恋愛関係にあった妹が、別の男性とつきあい始めたことにショックを受けて、兄は自殺。その後に父親も自殺する。そのような過去を持つ女性であり、息子と結婚しても、父親との不倫関係を続けたがる女性をジュリエット・ビノシュが演じています。

父と婚約者の、不倫現場を目撃した息子は転落死してしまいます。

その後、父親は一度だけ彼女を見かけます。「どこにでもいるような、普通の女だった」の父親の一言で映画は終わるのですけど…『落下の解剖学』の妻の持つ「悪」と『ダメージ』の「悪」は同じもののような気がするのです。

確か『ダメージ』の中にこういうセリフがありました。

「計り知れないくらいの傷を心に負ったものは、何がなんでも生き残ろうとする」

『落下の解剖学』の妻の過去については、多くが語られないのですけど、彼女の無自覚な「悪」にもそうなる理由があったのだと思います。

ただ生き残ろうとすることが、結果として「悪」になってしまう類の「悪」。恐ろしいくらいの演技を見せるザンドラ・ヒュラーも、『ダメージ』のジュリエット・ビノシュも、美しい額を剥き出しにしたアップスタイルの髪型をしている。

それはきっと偶然ではないように思うのです。