『フロイトと再会する』

アメリカで精神科の医師になるためのトレーニングというのは、本当に多岐にわたっていて…専門的な学習に加えて、フィジカルを対象とした医師になるためのトレーニングもしなくてはならないですし、人文系の勉強というのも広範囲ですることになります。

よくやったなぁと、今振り返ってみるとつくづく思いますからね。

ですから個人の趣味としての読書というのは、かなり時間がないとできないのですけどね…それでもあれこれ読みあさっていました。

ジル・ドゥルーズの『差異と反復』は当時流行していたこともあるのですけど、なかなかにしんどい本だったのです。何しろ哲学書ですからね。それも難解であることで有名な本ですから。

私を指導してくれていた教授はフロイト主義者とでもいうべき方でしたから、それはまぁフロイトの書いたものというのは、ほぼ全部読むことになる。その後レポートを書くとか、口頭で意見を求められるのですから、ただフロイトの本を読むだけでは不十分です。(本を読んで)ではどう思うのか、どう考えるのかという自分なりの「考え」を作り上げておかなければいけないのです。

ですから、私なりのフロイトというのは、すでに出来上がっていたのです。気難しそうな肖像写真も嫌というほど見ていましたから、あんまり関わりになりたくない曽祖父のような存在でしたね。

ところが『差異と反復』を読んでいて、そのフロイトのイメージがガラガラと音を立てて崩れていくような経験を味わったのです。平たく言ってしまえば、そういう読み方もできるのかという、ドゥルーズのフロイト読解に驚いたのでしょうね。ドゥルーズは哲学者であって、医師ではありませんから、哲学者のフロイトの読み方を提示してくれたのです。

日本語でいうところの「目から鱗が落ちる」というのは、こういう瞬間を呼ぶのだと思うのです。

最近『ドゥルーズの哲学原理』という國分功一郎さんの書いた本を読んでいて、久しぶりにフロイトに再会したような気がしています。

大まかなところでは、私が『差異と反復』から読み取った内容と同じだと思うのですけど、ライプニッツやスピノザの考えを下敷きにして、ドゥルーズのフロイト解釈を、さらに國分さん的に読み解いていくという作業は本当にエキサイティングな思考の試みとでも言える内容で、面白すぎて笑っちゃったくらいです。

まぁ、例によってワインを飲みながら、時間のある深夜に読んでいますからね、ある種の誤読が生じていることは間違いがないのですけど、昔馴染みの友人ではなく、ちょっと会わなかった曽祖父が、ああ、ジル久しぶりだなと顔を出したという感じでした。そうなると、こちらもご無沙汰してしまいまして申し訳ありません、お曽祖父さまと挨拶もしたくなると言うものですよね。

ドゥルーズのいう「超越論的な探求」とは、何かを考えるときの前提となっているすべての条件を疑うことから始まります。例えば「我思うゆえに我あり」という命題があるとしたら、そもそも「我」とは何か「思う」という状態は何かを疑うということです。文学の分野であれば「自明性批判」と呼ばれているものです。

ドゥルーズが考えるフロイトは『快原理の彼岸』において、超越論的に考え抜くことで「死の欲動」
(タナトス)を見出すことになった。ドゥルーズはフロイトを高く評価しています。だけど「超越論的探究の特徴は、ここでやめたいと思うところで辞めるわけにはいかないということである」と述べているように、前提を疑い、そう前提することに至った起源を遡ろうとすると…どこまでも遡れてしまう。

だから、ドゥルーズはフロイトが超越論的探求をやめたところから、さらに深掘りを始めていくのです。誰かが考えていることは、その全てを誰かという個人が把握しているわけではない。フロイトの考えは、その全てをフロイトが把握しているわけではないからですね。フロイトも気づかなかった、フロイトの考えと呼ばれているものを越え出ている何かについて考える。それがドゥルーズの方法なのですけど…考えてみたら、これはカウンセリングそのものですね。

フロイトをカウンセリングするように考えるドゥルーズ。彼の方法というのは、カウンセリングと通底しているのかもしれない。

もっと読み込めば、何かが見つかるかも。そういう予感がします。