『パリタクシー』

つくづく羨ましいなと思ってしまう風景というのが、フランス映画には出てきます。

フォトジェニックな古城の夕景とか、そういう特別な景色ではなくて、もっと市井のどこにでもある風景なのだけど、見ているこちらの「こころ」のどこかに、ちょっとした引っかき傷を残すような、そういうタイプの風景です。

そして、映画を見終わった後ずっと長い時間が経ってストーリーを忘れてしまっても、不意にそのシーンだけが頭に浮かんでくることがあります。

『トリコロール/青の愛』で家族を失ったジュリエット・ビノシュが、壁に手を沿わせるようにして歩いていく石造りの壁であるとか、ゴダールの『ウィークエンド』の田舎道で、渋滞した車が並ぶシーンであるとか、忘れられないシーンがたくさんあるのです。きっとあなたにもあるはずです。

ちょっとそういうタイプとは違うのですけど、最近見た映画で「流れていく風景」という記憶もあることを知りました。静止画としては記憶に残らないのだけど、流れていく風景の総体として、記憶に残ると言うのかな。

『地下鉄のザジ』で、マルシェでバイオリン弾きにぶつかって、ちょっとした悪戯もして、そのままサン・マルタン運河やメトロの中や、パッサージュを駆け抜けていく…オレンジ色のニットの女の子。そういう記憶ですね。

そうそう、『パリタクシー』の話でした。

パリのタクシー運転手のシャルル。フランス映画によく出てくる粗暴なタイプで、免停寸前。その彼が92歳のチャーミングなマダム(彼女の名前はマドレーヌです)をパリの反対側にある老人ホームに送り届ける話なのですけど、ラストは立ち上がれないほど泣いてしまったのです。

ねぇ、寄り道してくれない?

マドレーヌは、これが最後のパリを見る機会になることを知っていたのでしょう。彼女が人生を過ごしたパリのどこかに立ち寄る度に、彼女の古い記憶が蘇ってくる。それは、チャーミングな外見とは裏腹に、かなりハードな人生であったのですけど、それももう92歳の彼女からしたら、素敵な思い出になっているのかもしれない。

ラスト近くでは、すっかり仲良くなった2人が、ちょっとしたレストランでワインを傾けるのですけど、見ているこちらも微笑んでしまうのです。そういう小さな、そしてマドレーヌにとっては人生最後の旅なのですけど、パリの風景がなかったら、きっと同じ気持ちにはなれなかったと思うな。

タクシーの窓ガラスの向こうを流れていく風景。それをじっと見つめるマドレーヌ。ああ、あの頃とはずいぶん変わったわねと、きっと彼女は感じているのでしょう。どこにでもありそうで、どこにでもある訳がないパリの風景。それが、この映画を引き立ててくれるのですね。

ゲシュタルト心理学では、知覚現象を説明するのに「図と地」という考え方を用います。

人間が物を見たり、聞いたりするときに、すべての感覚刺激が一様に受け取られるのではなく、その中のある部分にだけが一つのまとまりになって、きわだって現れる。他は、その背後にバックとなってぼんやりするものである。これを視覚の場合の絵画的表現を用いて、前者を「図」、後者を「地」と呼びます。

聴覚による音楽表現であれば、「図」はメロディーラインですし、「地」は伴奏にあたります。

『トリコロール/青の愛』や『ウィークエンド』の忘れ得ぬシーンは、言ってみたら「地」であったはずのものが、「図」として記憶されてしまった訳ですし、『地下鉄のザジ』や『パリタクシー』の移動していく風景は、流れとしての『地』が、いつの間にか『図』になってしまったと言えるかもしれないですね。

亡くしてしまった、カメラマンだった息子。マドレーヌはカメラが趣味だったと言うシャルルに、息子を重ね合わせたのかもしれない。映画のラストで、わずか半日を過ごしただけの彼に、大きな遺産を残しますからね。

なぜ、そうなるのか。マドレーヌはいったい何をどう考えて、そういう結論に至ったのか。

その答えは、2人が共有した「地」としてのパリの風景が、静かに…だけどリアリティーを持って語ってくれます。

かけがえのない時間の対価。

それが粋な女ってものよ。

マドレーヌなら、天国できっとそう言うでしょうね。