『ジュンパ・ラヒリのテクスト⑤』

ローマの家具付きアパートで詩作の草稿を見つける。テーマや書かれた時期で分類し、出版された作品。ラヒリの『思い出すこと』はそのような体裁で書かれています。だから、あくまでもラヒリは作者ではなく(まえがきは書いていますけど。)編者だということになっているのですけど、もちろんそんなことはなく、全てラヒリが書いたものなのですね。

ラヒリが家具の引き出しを開けて見つけたのは…。

透明な袋に入った切手(フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティがデザインした切手には消印があり、封筒から切り取られていた)、緑色の鍵が一つ、一九六二年出版のギリシア/イタリア語小辞典、ブローチ、鉛筆削り、プラスティックのビーズがぎっしり詰まったマッチ箱、レース編み用のかぎ針、ボタンが二つ、貝殻が一枚、リラとユーロの換算表、住所録の《A》のページ(白紙)、医者が手書きした痩せるための詳しい食事療法、送られなかったいろいろな絵葉書、二人の兄弟が両親に贈った愛情のこもった数枚のカード、いくつかの祈りの言葉、それからヴィート・ドメニコ・バルンボが英語から訳したポーの『大鴉』についての覚え書きで埋め尽くされたメモ帳。

まぁ、引っ越す前に片付けていきなさいよとは思いましたけど、詩作のノート(ネリーナという名前がボールペンで書かれています。)と共に出てきた、この品物のリストを読むだけで、何だかうっとりしてしまうのですね。

これを自分の持ち物として、引き出しの奥にしまっておいた女性の書いた詩だったら、是非読んでみたい。そういう気分にさせてくれるのです。私が特に惹かれたのは「緑色の鍵」「一九六二年出版のギリシア/イタリア語小辞典」「リラとユーロの換算表」そして「ヴィート・ドメニコ・バルンボが英語から訳したポーの『大鴉』についての覚え書きで埋め尽くされたメモ帳」という描写なのですけど、なぜと訊かれても答えようがないことは自分でも分かっています。きっと私の知らない(覚えていない)「私」を形作っている記憶と、その描写は結びついているのだろう。その程度の仮説しか立てられない。好みというのは、たいがい理由が見つからないものですからね。

わくわくしながらページをめくると、ネリーナの詩がはじまります。

人知れずわたしを愛してくれる人と
いっしょにいる夢を見る。
ここにいるべきではない
前に行くのは罪だ。
そのとき突然気がつく。
ベッドの前も後ろも
壁は落書きだらけだと。
炭で描かれていて
線がぼやけて太くなっている。

どうしても知りたかった。
クレタ島で借りた家で
わたしたち四人が
午後のいちばん暑い時間を避け
二つの部屋に分かれて休んでいるあいだに
いったい誰があの梨を
あれほど完璧に食べたのか。
サイドテーブルの上の灰皿に
細く形のいい芯だけを
残して。

病院はあなたの後ろにあった。
不道徳な恋愛話を
語りあっていた大衆食堂の
ガラス窓の向こうに。

バリスタには言わないが、
蛇口のまわりで
指を折り曲げ
すばやく注いでくれる
滴のしたたる冷たい水の
グラスの温かさが
どれほど心地よいか。

う~ん。こういう詩を読んでいると、ワインが飲みたくなってきますね。