『ジュンパ・ラヒリのテクスト①』

最初に読んだジュンパ・ラヒリの作品は『停電の夜に』だったと思うのですけど、インド系イギリス人の彼女の言葉は、やけにしんみりと心に入ってくるのです。

ベンガル語と英語の話者である彼女は、さらに多くの言葉を学びます。2015年の『べつの言葉で』からは、移り住んだローマで学んだイタリア語で作品を書いています。続く『わたしのいるところ』では、ローマのトランステヴェレ地区で生まれ育った女性が主人公ですから、彼女のイタリア語はかなり上達したのでしょうね。

何となく彼女に親近感を覚えるのは、きっと私も日本語と英語の話者であることが理由ではないかと思うのです。その後バリ島でインドネシア語も学んだことがありますから、言語との関わりは彼女と似通ったところがあるのかもしれない。とはいえ、インドネシア語というのは、いわゆるアッパークラスの方たちが使う言語と、庶民の使う言葉は全く違いますから、2つの言葉を学んだようなものですけどね。

複数の言葉を母語とすると何が起こるのか…?

それはたぶん言葉の持っている、物理的な濃度のようなものが上がるのではないか。私はそう思っています。

そもそも言葉については、2つの考え方があるのですね。1つ目は、言葉を使う以前から、この世界は客観的に区分されているという考え方です。

「水」と日本語では呼び、英語では「water」と呼びますけど、その言葉が成立する以前から、それ(飲むとか、身体を洗うとか、川を流れている、海にあるという…「それ」ですね。)は文節されていた。だから、いわば「水」も「water」も偶然そう呼ばれるようになったという考え方です。

もう1つは「もの」は言葉以前にあらかじめ分節されているのではなく、言葉で名付けられることで、世界の見え方や世界の現れ方が決まるという考え方です。

私は後者の方がしっくりくるのですね。日本語で「蛍」と言ったら「せつなさ」とか「儚さ」と結びついていますけど、英語では「firefly」ですから。火の蝿と言われたら、あの淡い光のゆらめきの美しさというのは、なかなか感じられないでしょうから。

言葉というのはそういうものだ。言葉によって人間は世界を把握しているのだ。だから、違う言葉の世界では世界そのものが変わる。複数の言葉を母語とすると、その感覚があたりまえになるように思うのです。