『自由という刑罰③』

SNSに依存してしまって、スマホばかり見ている。

日本以上に、この状況が社会問題しているアメリカでは、さまざまな対策がとられているのですけど、あまり効果は上がっていないようです。日常生活を送っている現実のコミュニティーよりも、SNSの中のコミュニティーを重視するようになっているのですから、そのコミュニティーから離れろと言われたら…誰から私を認めてもらったらいいのという不安感に襲われることになってしまう。だから、なかなかSNSを制限することは難しいのだと思います。

承認欲求というと、目立ちたがりとか、自慢ばかりするとか、そういう出しゃばりな性格をイメージしがちですけどね。もっと本質的な問題が承認欲求には含まれているのです。

『愛と幻想のファシズム』の中で、村上龍は登場人物の医師にこう語らせています。

「生まれついて不完全な人間は、様々なものでその不完全さをカバーしようとするわけでね、自分というものもとても不確かなものなんだ、例えばね、自分のありとあらゆる知り合い、肉親、会社の上司、仲間から、ある日突然お前なんか知らないと言われてごらん、百パーセント、発狂するよ、他人から確認されて、自分が自分だといつもわかるだけなんだ、だから、確認を失った人々、自ら確認を拒否した人々、つまり狂人の中にいると、常に確認が必要な我々が逆に不自然極まるようにも思えてくるわけだ、そして、ある人が何によって、自分を確認しているのかを他人が理解するのはひどくむずかしい」

神の不在(もう私たちは、神が存在していた時代のことを思い出すことはできないかもしれませんね)によって「自由の刑」に処せられた人間は「自分は誰なのか?」を確認し続けなければならない不安感に襲われているのかもしれないですね。