訂正とお詫びです。

『問いとは何かを問う?』の文章の②が抜けていました。ごめんなさい。再アップしますね。

『問いとは何かを問う?①』

エジンバラ大学のラニ・ワトソンが2021年に発表した論文の要約を読んでいて、なるほどなぁと膝をうったのですよね。

Watson, L. (2021). What is a Question. Royal Institute of Philosophy Supplements, 89, 273-297.

こちらの論文なのですけど、タイトルは「問いとは何だろう」なのです。それはまぁ、哲学の歴史といったら問いの連続な訳です。時間とは何かとか、生きているとは何か、存在とは何か、人間とは何か、言語とは何か、そういう問いに答える形で哲学は発展していったのですけど、肝心の「問い」というのがそもそも何かということについては、誰も問うことがなかったのですね。

ラニさんは、「問いとは何か?」を「問いの問い(Question Question)」と呼んでいます。彼女がQuestion Questionを解いていくやり方が、なかなかに現代的で面白いのです。

この文章に問いは含まれていますか、いませんかということをインターネットユーザーに質問してみる。彼女はそうやってQuestion Questionに迫っていきます。

例えば「ベジタリアンのサラは、友達のために家の近くの肉屋を探そうとして、「地元 エジンバラ 肉屋」とグーグルに打ち込み、場所をメモする」この文章を提示して、意見を聞いてみるのです。さて、あなたはどう思うでしょうか?

『問いとは何かを問う?②』

「ベジタリアンのサラは、友達のために家の近くの肉屋を探そうとして、「地元 エジンバラ 肉屋」とグーグルに打ち込み、場所をメモする」

この文章に「問いはありますか?」と質問したところ、71%が「ある」、20%が「ない」、8%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、3515人、996人、365人だそうです)。

重要なのは、サラは3つの単語を入力して検索しただけですから「地元のエジンバラの肉屋はどこ?」と疑問文で訊いたわけではないことです。しかし大半の人々はサラが「問いかけた」と認識しています。ある」と答えた者は「グーグルで検索することは問いかけることだろう」と述べてもいるそうです。

この事例から分かることは、「A 問いとは常に疑問文ではない」ということになると思います。

それではこれはどうでしょう?

「教室に着いたサラは予習していると、知らない単語に出会い、辞書で調べた。」

この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、81%が「ある」、14%が「ない」、5%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、4119人、725人、260人)。

それでは、これはどうでしょう?考えてみてください。

「サラは学校への新しい行き方を試していた。その道中、彼女は交通量の多い、慣れない道路の脇に出てたとき、そこには横断歩道がなかった。彼女は横断歩道を渡る前に道路の左右を見て、車が来ていないかどうかを確認し、安全に渡る。」

『問いとは何かを問う?③』

「サラは学校への新しい行き方を試していた。その道中、彼女は交通量の多い、慣れない道路の脇に出てたとき、そこには横断歩道がなかった。彼女は横断歩道を渡る前に道路の左右を見て、車が来ていないかどうかを確認し、安全に渡る。」

この事例に「問いはありますか?」と質問したところ、66%が「ある」、28%が「ない」、6%が「よく分からない」と答えました(それぞれ、3670人、1589人、352人)。この2つの事例から意外なことが分かります。言葉を使って誰かに問うとか、インターネットでググるとかしなくても問いは成立する。そういうことですね。これで分かったことは「B 問いは言語的に表現されるとは限らない」ということです。

「A 問いとは常に疑問文ではない」

「B 問いは言語的に表現されるとは限らない」

それならば「問い」とは何なのか?

ラニさんの出した答えは「問いとは行為である」ということです。

問いとは疑問文でなくてもよいのですから、Googleの検索窓に「地元 エジンバラ 肉屋」と打ち込む。これは行為です。問いは言語的表現でなくてもよいのですから、知らない単語を辞書で調べる。これも行為です。知らない横断歩道を渡る時に左右を見る。これも行為ですね。

少しずつ見えてきましたね。問いとは、問うという行為なのです。