『寂しさ・退屈・依存症』

以前も書きましたけど、マルティン・ハイデガーは「退屈」について3つの形式があると書いています。

①退屈の第一形式…電車が来る時刻まで、かなりの時間がある。そういう時に感じる「退屈」。こういう「退屈」をやり過ごすために、人間は熱心に働くとか、何か「退屈」を感じないで済む方法を探すとも言っています。

②退屈の第二形式…パーティーに参加して、それなりに楽しい時間を過ごすのだけど、帰宅して我にかえると、自分は「退屈」していた。つまらなかったと感じるような「退屈」。

③退屈の第三形式…ふっと、何の前触れもなく心に湧いてくる「ああ、退屈だ」という感慨。

ハイデガーはなぜ「退屈」という気持ちが湧いてくるのかについては語っていないのですけど、精神科医の斎藤学さんによると「退屈」が生じるのは、このような理由だそうです。

「「寂しさ」は「感覚鈍麻という心的防衛を経て、退屈感へと移行」する。」

つまり「退屈」というのは「寂しい」という感情を感じることを避けた結果として生じるものだと言っているのですね。

さらに「寂しくて退屈な人は、愛されたい対象の安全な代替物として、自分を拒絶しないであろう食物やアルコールなどの嗜癖対象を選ぶようになる。そうした状態こそが依存症である。」とも書いています。

「寂しさ」「退屈」「依存症」という3つは、どうも関係が深い…と言うよりも、「依存症」の原因は遡っていけば「寂しさ」にある。そう書かれているのだと思うのです。

斎藤学さんの著書『「自分のために生きていける」ということ』には、このメカニズムが詳述されているのですけど、まとめてみますね。

まず斎藤さんの言う「寂しさ」というのは、秋になって何となく寂しいなぁというような美的な感慨ではありません。赤ちゃんが母親の乳房を求めて得られないときの憤怒、絶望、空虚などの入り混じった感情のことなのですけど、彼はそれを「耐えがたい寂しさ」と呼んでいます。

この「耐えがたい寂しさ」を感じないようにするために、人間は自分の感情を鈍麻させます。言ってみたらボーッとするということですね。「耐えがたい寂しさ」からくる痛烈な憤怒や不安を感じにくくなりますから、心の痛みがやわらぎます。だけど、同時に喜びの感情も失われてしまいます。それで、喜怒哀楽がはっきりしなくなってしまうのです。これを感覚鈍麻と呼ぶのですけど、そうなってしまうと、ああ自分は生きているなぁという、高揚感を得るための感情の量を増やさなければいけなくなります。

とはいえ、普通の状態ではそんな高揚感を得ることはできないですから、感じる感覚というのは「つまらない」とか「退屈だ」ということになるのです。これが「退屈」が生じる原因ですね。

それで、インスタントに高揚感を得ようとして生じるのが「依存症」なのですね。あるいは「退屈」なことを忘れるために「依存症」になってしまうとも言えるかもしれません。

「耐えがたい寂しさ」を感じる理由が、母親の乳房を求めても得られなかった記憶である以上、そこには「愛」の問題が関わっていることになります。だから「寂しくて退屈な人は、愛されたい対象の安全な代替物として、自分を拒絶しないであろう食物やアルコールなどの嗜癖対象を選ぶようになる」のです。依存症の方は、愛されるために頑張りすぎた子供時代の記憶を持っている方がほとんどですから。

大まかには、こういうメカニズムが依存症を生むことは分かっていても…依存症という状態から回復するのは容易なことではありません。「寂しさ」や「退屈」を強く感じている方は…一度カウンセリングを受けにいらっしゃってくださいね。