1897年のことです。8歳のヴァージニア・オハンロンちゃんが『ニューヨーク・サン』という新聞にサンタクロースは本当にいるのかと質問する手紙を書きました。
その答えというのが本当に素敵なのですね。詳しくは『Is there a Santa Claus ?』という記事に書いてありますから読んでみてください。
『ニューヨーク・サン』はこう書いています。
サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、人間の毎日は、癒されたり潤ったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごく寂しい世の中になってしまう。
ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごく寂しいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、子どもの素直な心も、つくりごとを楽しむ心も、誰かを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしか楽しめなくなるし、世界をいつも温かくしてくれる子どもたちの輝きも、消えてなくなってしまうだろう。
つまり「見たり聞いたりさわったりする」ものとしてはサンタクロースは存在しないかもしれないけれど「愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように」サンタクロースは存在する。それは決して嘘ではないですよね。相手が子どもだからといって詭弁を弄しているわけではないのです。
民俗学者の柳田國男さんは「ぬりかべ」についてこう書いています。
九州の博多地方では、夜中に海岸を歩いていると、そこから前に進めなくなるという現象が起こることがある。それを地元の人たちは「ぬりかべ」と呼んでいる。これはあくまでも現象であって、何が起こっているのかは誰にもわからないのですね。ただ前に進めなくなる。それだけのことです。ただ、足元を手ではらうようにすると、また進めるようになるという対処法がその後に続いています。
「見たり聞いたりさわったりする」ものとして存在しないけれど、それはある。それは「ぬりかべ」と名付けられている。
私たちが「ぬりかべ」と聞いてイメージするのは、巨大なこんにゃくに手足が生えているような、水木しげるさんが描いたキャラクターだと思います。ゲゲゲの鬼太郎の仲間の妖怪ですね。
じゃあ、博多に行けばこんにゃくのような「ぬりかべ」に出会えるかといったら、それはないでしょうね。ヴァージニアちゃんが質問した「存在するかどうか」という問いはその意味で言うのであればNOということになるでしょう。
だけど夜中に前に進めなくなるという現象は今でも起こるかもしれない。そういう意味であれば「ぬりかべ」は存在するでしょう。
「見たり聞いたりさわったりする」ものとしては存在しないけれど、私にとっては確実に存在している。それは私の仕事の関連であれば、統合失調症患者の幻聴や妄想ということになると思います。
統合失調症当事者である、ひまこさんが描く『今日もテレビは私の噂話ばかりだし、空には不気味な赤い星が浮かんでる ~統合失調症の私から世界はこう見えた~』というマンガのタイトルにもあるように、テレビの中で自分のことが話されている。あるいは、自分の考えが筒抜けになってしまっていて、テレビの中の人がそのことを話題にしている。そういう妄想というのは、統合失調症の方の妄想としては一般的なものなのですね。
何かの組織(それは宇宙人であったり、CIAだったり、反社会的団体であったりしますけど)から追われているという妄想も、追ってくる対象に差はあっても一般的な妄想の一つです。
それは「見たり聞いたりさわったりする」ものとしては存在しない。時には患者さんもそのことを分かっているケースもあります。
それは存在しませんと決めつけて、ドーパミンやセロトニンという脳内伝達物質について語ることは容易いでしょう。だけど、それは「サンタクロース」はいない、「ぬりかべ」はいないと言っているのと構造的には同じですね。
存在の仕方が違うということを知った上で、患者さんの存在するという現実にやわらかくつながる。精神科医として、そうしていきたいといつも思っているのです。