プラハの駅に列車が着いた時は、本当にワクワクしていたのよ。チェコはフランツ・カフカの国だからね。あの頃は『城』とか『審判』とか、カフカの本ばかり読んでいたのよ。
だから、列車を降りた瞬間に、黒いステンカラーコートのボタンを首元まで留めた女性に「失礼ですが日本人でしょうか?」と声をかけられた時は驚いた。まるでカフカの小説に出てきそうな、四角四面な役人みたいな雰囲気だったからなのだけど。その上、本当に福祉局のお役人だったのよね。
流暢な英語で首から下げた身分証明証を提示しながら、自分がなぜ駅にいて、外国人のあなたに話をすることになったのか。そのことを彼女は話してくれた。度の強いメガネが、なんだか雰囲気にピッタリだった。
ご存知のように、我が国は社会主義体制から資本主義への移行期間にあります。まぁ、こんな難しい英語が俺に分かるはずがなく、たぶんこういうことだろうなってのを書いているのだけどね。それに伴い、年金制度が崩壊しました。だから、年金を受給できなくて困っている高齢者がたくさんいるのです。お恥ずかしい話ですが。
ふむふむ。
福祉局では、さまざまな救済策を考案しました。その1つに、都市部に暮らしている一人暮らしの老人で、家族からの援助を期待できない方へは、自宅をホテルとして使うことを推奨しております。あなたは旅行者でいらっしゃる。そして、日本人でいらっしゃいます。これは凄く重要な点です。自宅ホテルに泊まってもいいと言ってくれるお客さまを、福祉局のスタッフは駅や国境で探しているのですけどね、経験上分かってきたことがあるのです。
まず、最悪なのはアメリカ人です。お酒を飲んで騒ぐ、違法なドラッグに手を出す、女性を連れ込む、そのような苦情が自宅ホテルから多数寄せられることになりました。西側ヨーロッパのティーンネイジャーも似たようなものです。それに比べて、日本人は本当に行儀がいい。オーナーである老人たちから、おおむね高評価をいただいております。
ああ、つまり、チェコのお年寄りの家に泊まりせんか、あなたはそう言っているのですね。それはホームステイのようなものですね?
そうそう、ホームステイ、まったくその通りです。チェコ人の普段の暮らしを体験できます。ということで、彼女についていくことになったのよ。地下鉄を乗り換えて、かなり古いマンションの前に俺は立っていた。
こちらです。彼女が案内してくれたのは、そのマンションの最上階(たぶん6階だったと思う)の部屋で、2LDKのつくりだった。マリアっていう名前のおばあさんが家主で(たぶん70代の半ばだと思う)彼女が使っている部屋には出入り禁止、部屋代は毎朝払うこと、冷蔵庫は使っていいけど彼女の物は食べないこと、そういう説明を受け、書面にしたものも渡された。
メガネの彼女の前でその日の部屋代を払い、ほとんど無表情だったマリアばあさんの顔がちょっと微笑んだ気がした。どうも膝が悪いようで、部屋の中でも杖をついている。
メガネの彼女が帰ってしまい、まったく意思疎通のできない2人が残された。俺はチェコ語をまったく知らないし、マリアばあさんは英語ができない。
自分の部屋に行って、ちょっと昼寝をしたのだけど、目が覚めるとマリアばあさんはいなくなっていた。
きっと夕ごはんの買い物にでも行ったのだろうと思って(自宅ホテルに食事はつかないので)俺も何か食べに行くことにした。その時気づいたのだけど…いったい自分がどこにいるのかわからない。あ、地下鉄の駅の名前を見に行こうと思ってマンションの入り口を出たら、誰かに声をかけられた。
1階はバーになっているのだけど、そのドアの近くの席にマリアばあさんが座っている。巨大なジョッキでビールを飲んでいて、おいでおいでと手招きをしている。
話は通じないのだから、とにかくビールを飲み(俺は世界一チェコのビールが好きなのよね)テレビを見ていた。テレビだって何をやっているのかスポーツ以外は分からない。マリアばあさんは、ちょっとそれはどうなのよというくらいビールを飲み、結局身体を支えるようにしながら、俺が部屋まで連れて帰った。
バーでジャガイモとか食べたから、もういいか。
そう思って、また寝ることにした。チェコの1日目は自分がどこにいるのか分からないまま終わった。