ひたすら心を無にして、お願いごとはなし、ただ、ただ、感謝のみ。
高野山でお坊さまに伺いました。それがお参りする時に大切なことだそうです。
少し不思議な話なのですけどね。今でも高野山では、空海さまとお会いする方がいらっしゃるそうです。
これは私が聞いた話なのですけどね。ある女性が高野山の宿坊までの道を歩いていて、その方は人工股関節を入れているので、ちょっと休憩することが必要になったのだそうです。
お仲間には先に行ってもらうことにして、自分はいい季節だし、ゆっくり歩いていくことにして、路傍の石に腰掛けて一息いれていたそうです。
そこに通りかかった若いお坊さまが、彼女の手を引いてくれて、時には背中をやさしく押してくれて、なにごともなく宿坊に着きました。お坊さまにお礼を言おうと思ったら、もういない。そういえば一言もお坊さまは口をお聞きにならなかったな、不思議だなと思って宿坊の門をくぐると、住職さまにこう言われたそうであす。
空海さまに、お会いになられたようですね。
彼女が言うのには、空海さまはかなりのイケメンだったとか…。
高野山で空海さまにお会い出来るのは、願いごとをしない方だそうです。
感謝のみ。それが条件だそうですよ。
神社参りも、それが鉄則だと私は思っています。
数年前に伊勢に伺った際に、地元の方の紹介で伊勢神宮内宮の別宮とされている、瀧原宮(たきはらのみや)まで足を伸ばしました。
伊勢神宮からは、車で40分くらいの距離なのですけど、この神社が本当に好きなのです。
神社の杜の中を、木漏れ日が美しいなぁと感じながら歩いていきます。そこには木々があり、土があり、川のせせらぎの音が聞こえてきます。もっと深い山の中で感じるような、ここは人間の住む俗世とはまったく別の土地なのだなという感覚がします。しんとしているけれど、そこには生命があふれている。目には見えないけれど、何か大切なエネルギーのようなものが、梢の後ろから、じっとこちらを見ているような。ふっと、何か柔らかくて大きな気配を感じるような…。
きっとそこにある何か神聖なものに感応して、昔の人たちはここを聖地としたのでしょう。鳥居の向こうに広がる、別世界の豊かさと静けさがあまりにも心地よくて、河原で1時間ほど目を閉じていたくらいですから。
そういう場所が、昔の日本にはたくさんあったのでしょうね。
カウンセリングは、あなたの心の中にある、あなたも知らない自然に出会うことでもあります。
神社というのは、セルフ・カウンセリングの場所なのかもしれません。