「世界が溶けて消えていくような、主観から一時停止して感情が落ち着く状態」
マシン・ギャンブリングに依存している人たちは、最終的に賭けごとに勝てるとは思っていないそうです。
確実にいつかは負ける。あるいは負け続けることになる。だけど、それでも賭けごとを続けるのは(依存してしまえば、賭けごとを続けざるを得なくなるのはということでしょうけど)マシンが生み出してくれるゾーンに入ることができるから。
だから、依存者の目的は、できるだけ長くそのゾーンに居続けることに、いつの間にかすり替わっていることになります。
『ニッツ・アイランド 非人間のレポート』を撮影したスタッフのインタビューには、このようなことが書かれています。
「ある時、ゲームのツールを一切使わずに、ただぶらぶらしているプレイヤーに出くわしたんです。ゲームの中で立ち止まり、ただ景色を眺め、周囲を見渡し、仮想世界の中で人々と腰を下ろし、一時停止し、関係ないことを話し、実際にはプレイしない。それが可能だとわかった時、私たちは「ここを舞台にドキュメンタリーを作れるかもしれない」と気づきました。それが始まりだったと思います。」
おそらく長時間をゲーム内で過ごしているプレイヤーに目的があるとすれば、できるだけ長くその世界にいること。
それはギャンブリング・マシンと同じような、ゾーンに入っている状態を継続したいからではないかと思ったのですね。
そういえば、禅宗の坐禅にも、瞑想に没頭しすぎて発症する「禅病」がありますからね。
ギャンブルでも、ゲームでも、そして瞑想だって、脳は依存することがあるということです。
映画の後半は、宗教を立ち上げた牧師を追っていくことになるのですけど、ゲーム内の世界の果てを目指して、集団で歩き続けるというイベント(最終的には、悪天候と、食糧の枯渇で死んでしまう方も出てしまいますけど)に参加しているアバターを見ていると、なんだか幸福そうだなと感じたのです。
小学校の林間学校に参加している子供たちのような感じで、仲間とくだらないおしゃべりをしながら、美しいゲーム内の自然を歩いていく。
これがしたいから、ゲーム内に戻ってくるのだと思うのですよね。