父親に連れられて日本に帰国した際には、神社にも行ったことはありますけどね。
それでも日本で生まれ育った方たちに較べたら、神社という場所への馴染みは薄いと思うのです。
でも、その場所の(玉置神社のように、自然の中にぽつんと置かれているような古社は特に)薄暗狩りの中に漂う、何か懐かしさを引き出されるような気配というものを感じることができます。
拝殿の闇の奥にある(あることになっているだけで、それは見ることができないですから、あるかどうかさえ定かではないのですけど)御神体に手を合わせている時の心の状態というのが好きでもあるのです。
旅の目的は果たした訳ですから、三柱神社から駐車場へ戻って行ったのですけど、それはまぁ神域と呼ばれている空間から、日常の空間へ戻る道でもある訳です。これが辛かったですね。
もう足の筋肉が細かく痙攣していましたから。またジョギングでも始めないといけないなぁと思いましたから。
彫刻家のロダンの言葉なのですけど、この感覚というのは、生まれ変わることを求めて旅をした日本人に近いように思うのです。
「古い寺院の中へはいるのは、自分の魂の中へはいるようだ。最も自分らしい自分の空想が戸を押すと立って私の方へやって来る。」
疲れたなぁ、遠いなぁ、道が悪いなぁ…なんてことを考えながら玉置神社まで行ったのですけど(もちろん平安時代の旅人に比べたら、たとえようもないほど楽なのですけどね)そうして覗き込んだ闇の奥というのは、自分の魂なのかもしれない。
エリアーデは「神聖さは、意識の構造のひとつの要素であり、意識にまつわる歴史の一側面ではない」と述べていますけど、つまり神聖さを感じることは、人間に本来的に備わっているものなのでしょう。
それをできるだけリアルな形で取り出してくる、自らの神聖さに触れるための環境づくりが旅の中で整っていく。
玉置神社は薄暗くある必要があるし、熊野古道は苦しい道中である必要がある。
狐憑きについての、いわゆる心霊的な解釈や意味については分かりませんけど、少なくとも狐憑きを祓える神社としての「玉置神社詣」というイベントには、古くて優しさを感じさせるような智慧が深い部分に備わっているように思うのです。