『フクロウは見かけと違う③』

諸外国からの反対にあって、政教分離をせざるを得なかった明治政府は、宗教としてではなく道徳として神道を利用する方向に舵を切ります。その中で神社は合祀されることになるのですけど…合祀される(つまり、なくなってしまう)神社や祠というのは、天照大神をトップに置いた、言ってみたら神さまのヒエラルキーに収まりきらない神さまだったのですね。

淫祠邪教(いんしじゃきょう)というような言い方もされていたそうですけど、男性の生殖器を模ったような石の像を御神体とする神社や、道祖神が合祀される対象になったのです。

日本の神さまには、常にそこにいて、氏子を守っているようなタイプの神さまと、折口信夫が「まれびと」と呼んだ、いわば異界から定期的に来訪して、共同体を活性化してくれるタイプの神さまがいた訳です。淫祠邪教と呼ばれたタイプの神さまは後者でしたから、道徳的にけしからんという政府の指導で、それを排除する、消してしまうということをすると…『やってくる』で自分の言葉の世界に閉じ込められて、離人症のような症状を起こしてしまうのも同じことが社会に起こってしまう。中沢新一の文章を引用しますね。

「この神社合祀の時に日本人の精神に起きた変化というのは、未だに痕跡を残していますけれども、私たちの社会が抱える大きな問題もここに根差しています。つまり境界にいた神々を通して、人間の世界を超えた外の領域、あるいは宇宙からの諸力からもたらされた価値を私たちの世界にもたらし、私たちの生活に生かしていけるように変換していく装置を破壊してしまったのです。そして村の中心部には神社が一つ残ることになりました」

後ろ戸の神やシャグジ、翁と呼ばれた「まれびと」の神がやってくる異界というのは、私たちの無意識の喩えでもあるのですね。道徳的に正しい、国家神道のヒエラルキーに収まるような、いわば人間の意識でコントロールできるような心の領域だけではなく、人間には「まれびと」という抑圧されたものが回帰してくる無意識という場があるのです。それを排除してしまうと…日本人の心を歪めることになる。

神社合祀に反対した南方熊楠は、そのことに気づいていたのだと思うのです。