『文学のふるさと(赤い靴はいてた女の子)③』

屋根まで飛んで消えてしまうシャボン玉

言葉が通じないことが不安で泣いている人形

明らかに血のつながりのない異人さんと外国に向かう女の子

こういう雨情の歌詞を読んでいると、読後感というか、読み終えた瞬間に心の奥から滲み出てくる感情が同質のものであるように思うのですね。

そして、この感じ。それは悲しいとか、寂しいとか、やるせないとか、そういう心情を含む感情であることは間違いがないのですけど…それよりも「突き放された」感覚というものが残るように思うのです。

世の中というのは、自分の思うようにはいかなくて…納得しようがしなかろうが関係なく、そういうものだから受け入れる他ないという、そういう感じを「突き放された」感覚と私は呼んでいるのですけど、子供時代の私が『赤い靴』をはじめて聞いて感じた、そういう不思議な感覚というのは、今でも心の中に手触りとして残っているのですね。

坂口安吾の『堕落論』の中に『文学のふるさと』という小編があるのですけど、これを読んだ時に(『堕落論』は本当に凄い本だと常々思っています。)あの感じというのが、見事に表現というか、説明されていたのです。まさに痒いところに手が届いたというか、そうそう、それそれとひざを打つような文章なのですけどね。

安吾はその感じを説明するのに、まずはシャルル・ペローの『赤頭巾』から始めます。最終的に狩人に救われる版ではなくて、オリジナル版ですね。つまり、赤頭巾ちゃんは狼に食べられました。終わり…という身も蓋もない方の『赤頭巾』について、こう書いています。

「愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。」

安吾はその感じを「何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」とも書くのですけど、『赤い靴』から感じる感覚と似ていると思いませんか?