『シャルル・ペパンとバカロレア③』

世の中には自己啓発書と呼ばれているジャンルの本がたくさんあって、そもそも「啓発」という言葉は論語からきているそうなのですけど、まぁヨーロッパで17世紀後半から流行した啓蒙思想の「啓蒙」のような意味ですね。知らないことを教えて、より高い認識に導くという感じでしょうか。

自己啓発が可能だという前提に立たなくては、この手の本は書けないのですけど、そもそも自己=主体というのはどのような構造になっているのか。シャルル・ペパンなら、まずそこを疑うでしょうね。

『フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書』から引用しますね。

「「私はシャルル・ペパンです」というときの主語である「私」は、「自己規定」である。考えたり、幸せを感じたりするのに他者の存在は必要がないし、今、自分が考えているということ、幸せな状態にあるということは、他者の存在がなくても自覚できる。

 だが、その一方で、他者との関係によって、自分の考えや幸福の度合いを「意識させられる」こともある。これが、サルトルやメルロ=ポンティが「相互主観性」と呼んだものである。」

デカルトの「われ思う。ゆえにわれあり」の場合の「私」という主体は、他者がいなくても「私」が存在することは疑いようがないと考える訳です。唯我論と呼ばれます。そうではなくて、そもそも「私」が立ち上がってくるためには他者との出会いが必要だと考えるのが、ヘーゲルの立場です。

自己啓発書を読みさえすれば、あなたはより高い認識に立つことができる。そう考えるのであれば、暗黙理にデカルトの立場に近づくことになるでしょう。いやいや、読むだけではダメで、本を置いて外に出て、他者と関わらないといけないと考えるのであれば、それはヘーゲルやサルトル、メルロ=ポンティに接近することになる。

もちろんこれが正解ですという絶対的なジャッジはないのですけどね。あくまでも、私はこう考える。だからこう行動するという…考えるための技術として哲学は提示されている訳ですから。

カウンセラー、あるいは分析家という特殊な他者が介在することで、クライアントが変化していく。そういう仕事をしている私としては、ヘーゲル的な立場を取らざるを得ないことになります。まぁ、そもそも他者がいなければ抑圧は生じないでしょうから、そうなると無意識が形成されないことになるかもしれないですしね。