『やってくる⑥』

『やってくる』では強烈な懐かしさという感情を、井上陽水の『夢の中へ』の歌詞を引用して説明します。

具体的なものを探すという行為が、いつしか探すことそのものが目的となるような行為に変化していく。その行為と地続きにあるのが、ある種の夢の世界ではないか。

何かが懐かしいのではなく、対象を持たない純粋な懐かしさというのは、そこからやってくるのではないかと彼は書くのですけど、すでにこのことは、折口信夫や中沢新一の論考によって説明済みだし、そちらの方が私にはしっくりくるのですね。

つまり、そもそもデジャブを感じる時というのは、私たちは外部に触れているのですから、自分のやってきた故郷に触れているのと同義です。それはまぁ、懐かしいはずですよね。

その感覚は能楽の翁の”マ”(才能ある演者ほど、それは間ではなく魔なのですから、懐かしさという感慨は深くなるはずです)から感じ取るものと同じものであり、来訪神の異形な姿(泥や葉にまみれています)に感じる恐ろしさの向こうにあるものと同じでしょう。

外部に触れるとき、私たちはその圧倒的な強さの中に、もちろん個人差はあるでしょうけど、懐かしさを感じ取らずにはいられないのだと思います。

全ての故郷に触れる。それが外部に触れるという体験であるのであれば、その回路を遮断してしまうのは、あまりにも勿体ない。私はそう思うのですね。

カウンセリングをしていて、悩みの深い方、あるいは精神に問題を抱えてしまっている方からは、自分の世界に閉じ込められているという印象を強く感じることが多いのです。

郡司ぺギオ幸夫が陥った離人症様の状態(外部に接することなく言葉の世界に封じ込められ、その内部を循環している状態)ほどではないにしても、自分が採用している枠組みの中でしか思考できない状態に陥るというのは、外部との境界を閉ざすことと、ほぼ同義だと思うのですね。

外部に接することなく言葉の世界に封じ込められ、その内部を循環している状態。これはそのまま精神疾患に罹患している状態の説明として採用できてしまいますから。