シンクロニシティが起こる時。あるいは何かが「やってくる」時というのは、私たちは言葉で文節化される前の、いわば故郷のような世界、原初の母のような異界に触れている。そこには生と死とか、男と女とか、全ての二項対立が帳消しにされたような世界で、生命と意識はそこから生まれた。
郡司ぺギオ幸夫は理工学部の教授をされているのですから、その分野の枠組みの中で思考する。同じことを折口信夫は民俗学の分野で、中沢新一は宗教学の枠組みの中で思考する。そして言語化するのですけど…捉えたいと願っている対象は同じものなのですね。どう頑張っても境界面までしか言語化することができない対象なのですから、その周囲をぐるぐると迂回するような形になるのですけど、その回り道が本当に興味深いのです。
『やってくる』ではデジャブについての言及があるのですけど、著者の解釈はこうなります。
デジャブというのは強烈な既視感のことですね。「その強烈さというのは、ある意味、純粋な既視感です。つまり、具体的に以前経験したらしい出来事を探したくなったり、「どこかで経験したのか」という疑問が明確に認識されるのではなく、ただただこの経験と無関係な「懐かしさ、親しみ、安堵感」などが押し寄せてきたのです。」
あれ、この場所には初めて来たはずなのに、以前に来たことがあるように感じる。そういう感覚よりも、押し寄せてくる「懐かしさ、親しみ、安堵感」に圧倒される経験を持つこと。それをデジャブ体験と考えていると思うのですね。私にも経験があります。あれはパリだったですね。
はじめて来た場所を既知であるという感覚…過去完了を感じた。ところがすぐに、いやいや、ここははじめての場所だから勘違いだと自分を納得させる…現在完了で事態を処理する。
この過去完了と現在完了が共存している状況がデジャブを発生させるのです。いやいや、勘違いだという意識がより強くなる、それはつまり現実は確固たるもので揺るがない感覚を持つということでしょうけど、まぁ平たく言ってしまえば頭が固くなるということです。そうなってしまう以前…つまり20歳がデジャブを感じるピークだそうですよ。それでも年に3回程度だそうですけどね。
現実が一度揺らぐ。その時感じる懐かしさはどこからやってくるのか?